七年

六年へ ≪ 翻訳実績 ≫ 高后紀

 

【原文】

 

 七年冬十月、發車騎・材官詣滎陽、太尉灌嬰將。

 春正月辛丑朔、日有蝕之。夏五月丁卯、日有蝕之、既。

 秋八月戊寅、帝崩于未央宮。九月辛丑、葬安陵。

 贊曰、孝惠内修親親、外禮宰相、優寵齊悼・趙隱、恩敬篤矣。聞叔孫通之諫則懼然、納曹相國之對而心説、可謂寬仁之主。遭呂太后虧損至德、悲夫。

 

【訓読】

 

 七年冬十月、車騎・材官を發し滎陽に詣らしめ、太尉灌嬰 將たり。

 春正月辛丑朔、日の之を蝕する有り。夏五月丁卯、日の之を蝕する有り、つ;既く。

 秋八月戊寅、帝 未央宮に崩ず。九月辛丑、安陵に葬す。

 贊に曰わく、孝惠は内は親親を修め、外は宰相を禮し、齊悼・趙隱を優寵し、恩敬篤し。叔孫通の諫むるを聞けば則ち懼然とし、曹相國の對を納れて心によろこ;説ぶは、寬仁の主と謂うべし。呂太后の至德を虧損するに遭う、悲しきかな。

 

【訳文】

 

 七年冬十月、車騎・材官を徴発して滎陽に行かせ、(後の)太尉の灌嬰が将となった。

 春正月辛丑朔、日蝕が起こった。夏五月丁卯、皆既日蝕が起こった。

 秋八月戊寅、恵帝が未央宮で崩御した。九月辛丑、安陵に葬した。

 贊に言う。孝恵皇帝は内は親属を修め、外は宰相を礼遇し、斉の悼恵王の劉肥や趙の隱王の劉如意を優遇寵愛し、恩敬は篤かった。叔孫通の諫言を聞くと驚き(その諫言に従い)、相国の曹参の対を受け容れて心を喜ばせたのは、まさに寬仁の主と言うべきである。呂太后がその至德を損なうことになってしまったのは、なんと悲しきことであろうか。

 

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※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2018.2.11(発表者 ごわ)