十二年

十一年へ ≪ 翻訳実績 ≫ 卷二 惠帝紀

 

【原文】

 十二年冬十月、上破布軍于會缶、布走、令別將追之。

 上還、過沛、留、置酒沛宮、悉召故人父老子弟佐酒。發沛中兒得百二十人、教之歌。酒酣、上擊筑、自歌曰「大風起兮雲飛揚、威加海內兮歸故鄉、安得猛士兮守四方。」令兒皆和習之。上乃起舞、忼慨傷懷、泣數行下。謂沛父兄曰「游子悲故鄉。吾雖都關中、萬歲之後吾魂魄猶思樂沛。且朕自沛公以誅暴逆、遂有天下、其以沛為朕湯沐邑、復其民、世世無有所與。」沛父老諸母故人日樂飲極歡、道舊故為笑樂。十餘日、上欲去、沛父兄固請。上曰「吾人眾多、父兄不能給。」乃去。沛中空縣皆之邑西獻。上留止、張飲三日。沛父兄皆頓首曰「沛幸得復、豐未得、唯陛下哀矜。」上曰「豐者、吾所生長、極不忘耳。吾特以其為雍齒故反我為魏。」沛父兄固請之、乃并復豐、比沛。

 漢別將擊布軍洮水南北、皆大破之、追斬布番陽。

 周勃定代、斬陳豨於當城。

 詔曰「呉古之建國也。日者荊王兼有其地、今死亡後。朕欲復立呉王、其議可者。」長沙王臣等言「沛侯濞重厚、請、立為呉王。」已拜、上召謂濞曰「汝狀有反相。」因拊其背、曰「漢後五十年東南有亂、豈汝邪。然天下同姓一家、汝慎毋反。」濞頓首曰「不敢。」

 十一月、行自淮南還。過魯、以大牢祠孔子。

 十二月、詔曰「秦皇帝、楚隱王、魏安釐王、齊愍王、趙悼襄王皆絶亡後。其與秦始皇帝守冢二十家、楚・魏・齊各十家、趙及魏公子亡忌各五家、令視其冢、復亡與它事。」

 陳豨降將言豨反時燕王盧綰使人之豨所陰謀。上使辟陽侯審食其迎綰、綰稱疾。食其言綰反有端。春二月、使樊噲・周勃將兵擊綰。詔曰「燕王綰與吾有故、愛之如子、聞與陳豨有謀、吾以為亡有、故使人迎綰。綰稱疾不來、謀反明矣。燕吏民非有罪也、賜其吏六百石以上爵各一級。與綰居、去來歸者、赦之、加爵亦一級。」詔諸侯王議可立為燕王者、長沙王臣等請立子建為燕王。

 詔曰「南武侯織亦粵之世也、立以為南海王。」

 三月、詔曰「吾立為天子、帝有天下、十二年于今矣。與天下之豪士賢大夫共定天下、同安輯之。其有功者上致之王、次為列侯、下乃食邑。而重臣之親、或為列侯、皆令自置吏、得賦斂、女子公主。為列侯食邑者、皆佩之印、賜大第室。吏二千石、徙之長安、受小第室。入蜀漢定三秦者、皆世世復。吾於天下賢士功臣、可謂亡負矣。其有不義背天子擅起兵者、與天下共伐誅之。布告天下、使明知朕意。」

 上擊布時、為流矢所中、行道疾。疾甚、呂后迎良醫。醫入見、上問醫。曰「疾可治(不醫曰可治)。」於是上嫚罵之、曰「吾以布衣提三尺取天下、此非天命乎。命乃在天、雖扁鵲何益。」遂不使治疾、賜黃金五十斤、罷之。呂后問曰「陛下百歲後、蕭相國既死、誰令代之。」上曰「曹參可。」問其次、曰「王陵可、然少戇、陳平可以助之。陳平知有餘、然難獨任。周勃重厚少文、然安劉氏者必勃也、可令為太尉。」呂后復問其次、上曰「此後亦非乃所知也。」

 盧綰與數千人居塞下候伺、幸上疾愈、自入謝。夏四月甲辰、帝崩于長樂宮。盧綰聞之、遂亡入匈奴。

 呂后與審食其謀曰「諸將故與帝為編戶民、北面為臣、心常鞅鞅、今乃事少主、非盡族是、天下不安。」以故不發喪。人或聞、以語酈商。酈商見審食其曰「聞帝已崩、四日不發喪、欲誅諸將。誠如此、天下危矣。陳平・灌嬰將十萬守滎陽、樊噲・周勃將二十萬定燕代、此聞帝崩、諸將皆誅、必連兵還鄉、以攻關中。大臣內畔、諸將外反、亡可蹻足待也。」審食其入言之、乃以丁未發喪、大赦天下。

 五月丙寅、葬長陵。已下、皇太子羣臣皆反至太上皇廟。羣臣曰「帝起細微、撥亂世反之正、平定天下、為漢太祖、功最高。」上尊號曰高皇帝。

 初、高祖不脩文學、而性明達、好謀、能聽、自監門戍卒、見之如舊。初順民心作三章之約。天下既定、命蕭何次律令、韓信申軍法、張蒼定章程、叔孫通制禮儀、陸賈造新語。又與功臣剖符作誓、丹書鐵契、金匱石室、藏之宗廟。雖日不暇給、規摹弘遠矣。

 贊曰、春秋晉史蔡墨有言、陶唐氏既衰、其後有劉累、學擾龍、事孔甲。范氏其後也。而大夫范宣子亦曰「祖自虞以上為陶唐氏、在夏為御龍氏、在商為豕韋氏、在周為唐杜氏、晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師、魯文公世奔秦。後歸于晉、其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏。秦滅魏、遷大梁、都于豐。故周巿説雍齒曰「豐、故梁徙也」。是以頌高祖云「漢帝本系、出自唐帝。降及于周、在秦作劉。涉魏而東、遂為豐公。」豐公、蓋太上皇父。其遷日淺、墳墓在豐鮮焉。及高祖即位、置祠祀官、則有秦・晉・梁・荊之巫、世祠天地、綴之以祀、豈不信哉。由是推之、漢承堯運、德祚已盛、斷蛇著符、旗幟上赤、協于火德、自然之應、得天統矣。

 

【訓読】

 十二年の冬十月、上 布の軍を會缶(かいち)に破り、布 走げて、別將をして之を追わしむ。

 上 還り、沛を過(よぎ)り、留まりて、沛宮に置酒し、悉く故人父老子弟を召して酒を佐(たす)けしむ。沛中の児を発し、百二十人を得(え)、之に歌を教ふ。酒酣(たけなわ)にして、上 筑(ちく)を撃ち、自ら歌ひて曰く「大風(たいふう)起こりて雲飛揚(ひやう)す。威 海内(かいだい)に加わりて故郷に帰る。安にか猛士を得て四方を守らしめん」と。兒をして皆 之に和習せしむ。上 乃ち起ちて舞ふ、忼慨して懷(おもひ)を傷(いた)め、泣(なみだ)數行下る。沛の父兄に謂ひて曰はく、「游子は故郷を悲しむ。吾 関中に都すと雖も、萬歲の後、吾が魂魄は猶ほ沛を楽しく思ふべし。且つ朕 沛公より以て暴逆を誅し、遂に天下を有(たも)てり、其れ沛を以て朕が湯沐の邑(いふ)と為し、其の民を復し、世世與(あずか)る所有る無からん」と。沛の父老・諸母・故人 日に楽飲して歓を極め、旧故を道(い)い笑楽を為す。十餘日にして、上 去らんと欲すも、沛の父兄固く請ふ。上 曰く「吾人(ごじん)衆(しゅう)多し、父兄給すること能はざらん」と。乃ち去る。沛中県を空(むな)しうし皆邑西に之きて献ず。上 留止し、張飲すること三日。沛の父兄皆頓首して曰く「沛は幸に復することを得たれども、豊未だ得ず、唯だ陛下哀矜(あいきょう)せよ」と。上 曰く「豊は、吾が生長せし所、極めて忘れざるのみ。吾 特(とく)に其の雍歯が為に我に反きて魏の為にするを以てなり」と。沛の父兄固く之を請ふ、乃ち并せて豊を復して、沛に比す。

 漢の別將 布の軍を洮水(とうすい)の南北に擊ちて、皆な大いに之を破り、追いて布を番陽(はよう)に斬る。

 周勃 代を定め、陳豨を當城に斬る。

 詔して曰わく「呉は古の建國なり。日者(さき)には荊王 其の地を兼有し、今は死して後亡し。朕 復た呉王を立てんと欲すれば、其れ可なる者を議せよ」と。長沙王臣等言わく「沛侯濞は重厚なれば、請う、立てて呉王と為さん」と。已に拜せらるるや、上 召して濞に謂いて曰わく「汝の狀 反相有り」と。因りて其の背を拊(な)でて、曰わく「漢は後五十年にして東南に亂有るも、豈に汝ならんや。然(しか)して天下は同姓一家なれば、汝 慎んで反する毋かれ」と。濞 頓首して曰わく「敢えてせず」と。

 十一月、行きて淮南より還る。魯を過(よ)ぎり、大牢を以て孔子を祠る。

 十二月、詔して曰わく「秦の皇帝、楚の隱王、魏の安釐王(あんきおう)、齊の愍王(びんおう)、趙の悼襄王(とうじょうおう)は皆な絶えて後亡し。其れ秦始皇帝には守冢二十家、楚・魏・齊には各〻十家、趙及び魏の公子亡忌(ぶき)には各〻五家を與(あた)え、其の冢を視しめ、復して它事に與(あずか)ること亡からしめよ」と。

 陳豨の降將 豨の反する時に燕王盧綰 人をして豨の所に之かしめ陰かに謀るを言う。上 辟陽侯の審食其(しんいき)をして綰を迎えしむるも、綰 疾(やまい)と稱す。食其 綰の反に端有るを言う。春二月、樊噲・周勃をして兵を將い綰を擊たしむ。詔して曰く「燕王綰 吾と故(こ)有り、之を愛すること子の如し、陳豨と謀有りと聞くも、吾 以為(おもへ)らく有る亡しと、故に人をして綰を迎えしむ。綰 疾と稱して來らず、謀反 明らかなり。燕の吏民 罪有るに非ざれば、其の吏の六百石以上に爵を賜うこと各々(おのおの)一級とせよ。綰と居るも、去りて來歸する者は、之を赦し、爵を加うること亦た一級とせよ。」と。諸侯王に詔して立てて燕王と為すべき者を議せしめ、長沙王臣等 子の建を立てて燕王と為すを請う。

 詔して曰く「南武侯の織(しょく) 亦た粵の世(せい)なれば、立てて以って南海王と為せ。」

 三月、詔して曰く「吾 立ちて天子と為り、帝として天下に有ること、今に于(お)いて十二年なり。天下の豪士賢大夫と共に天下を定め、同(とも)に之を安輯(あんしゅう)す。其の有功の者 上なれば之を王に致し、次なれば列侯と為し、下なれば乃ち食邑とす。而して重臣の親、或は列侯と為し、皆 自ら吏を置き、賦斂(ふれん)を得しめ、女子もて公主となす。列侯と為りて邑を食む者、皆 之に印を佩ばしめ、大なる第室を賜う。吏の二千石、之を長安に徙し、小なる第室を受(さず)く。蜀漢に入りて三秦を定める者、皆 世世復す。吾 天下の賢士功臣に於いて、負(そむ)く亡しと謂うべきなり。其の不義にして天子に背き擅(ほしいまま)に兵を起こす者有らば、天下と共に伐ちて之を誅せん。天下に布告し、朕の意を明知せしめよ。」と。

 上 布を撃ちし時、流矢の中つる所と為り、行(こう)道(どう)して疾(や)む。疾(やまい)甚(はなは)だし。呂后 良醫を迎ふ。醫入りて見え、上 醫に問ふ。曰く「疾(やまい)治(おさ)むべし」と。是に於いて上 之を嫚罵し、曰く「吾 布衣を以て三尺を提(ひっさ)げて天下を取れり、此れ天命に非ずや。命は乃ち天に在り、扁鵲と雖も何の益かあらん」と。遂に疾を治めしめず、黄金五十斤を賜ひ、之を罷む。呂后 問ひて曰く「陛下百歳の後(のち)、蕭相国既(すで)にして死せば、誰をか之に代わらしめん」と。上 曰く「曹參 可なり」と。其(その)次を問ふ、曰く「王陵 可なり、然れども少しく戇(とう)なり、陳平 以て之を助くべし。陳平は知 余り有り、然れども独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なし、然れども劉氏を安んずる者は必ず勃なり、太尉と為らしむべし」と。呂后復た其の次を問ふ、上曰く「此の後は亦(また)乃(なんじ)が知る所に非ざるなり」と。

 盧綰 數千人と與に塞下に居りて候伺(こうし)し、上の疾(やまい)愈(い)ゆれば、自(みずか)ら入りて謝せんことを幸(ねが)ふ。夏 四月甲辰、帝 長楽宮に崩ず。盧綰 之を聞き、遂に亡げて匈奴に入(い)る。 

 呂后 審食其と謀りて曰く「諸將 故より帝と編戶の民たり、北面して臣と為る、心 常に鞅鞅として、今 乃ち少主に事(つか)えるに、盡く是を族するに非ざれば、天下 安んぜざるなり。」と。以って故に喪を發せず。人 或は聞き、以って酈商(れきしょう)に語る。酈商 審食其に見えて曰く「聞くならく帝 已に崩じ、四日 喪を發せずして、諸將を誅せんと欲すと。誠(まこと)に此くの如くんば、天下 危きなり。陳平・灌嬰 十萬を將いて滎陽を守り、樊噲・周勃 二十萬を將いて燕代を定め、此れ帝 崩じ、諸將 皆誅せらるを聞けば、必ず兵を連ねて鄉に還り、以って關中を攻めん。大臣 內に畔(そむ)き、諸將 外に反(さから)えば、足を蹻(あ)げて待つべきもの亡きなり。」審食其 入りて之を言い、乃ち以って丁未に喪を發し、天下に大赦す。

 五月丙寅、長陵に葬る。已に下し、皇太子羣臣 皆反して太上皇の廟に至る。羣臣 曰く「帝 細微より起ち、亂世を撥(おさ)め之を正しきに反(かえ)し、天下を平定し、漢の太祖と為り、功は最も高し。」と。尊號を上(たてまつ)りて高皇帝と曰う。

 初め、高祖 文學を脩めず、而るに性は明達、謀を好み、能く聽き、自ら監門戍卒、之に見(まみ)ゆること舊の如し。初め民心に順い三章の約を作る。天下 既に定まり、蕭何に命じて律令を次(つ)ぎ、韓信に軍法を申(の)べしめ、張蒼に章程を定めしめ、叔孫通に禮儀を制さしめ、陸賈に新語を造らしむ。又た功臣に剖符(ぼうふ)を與え誓を作(な)し、丹書鐵契(てつけい)、金匱(きんき)石室、之を宗廟に藏(おさ)む。日 給するに暇あらずと雖も、規摹(きぼ) 弘遠なり。

 贊に曰わく、春秋の晉史の蔡墨に言有り、「陶唐氏の既に衰えて、其の後に劉累有り、擾龍を學び、孔甲に事(つか)う。范氏は其の後なり」と。而して大夫の范宣子も亦た曰わく「祖は虞より以上は陶唐氏たり、夏に在りては御龍氏たり、商に在りては豕韋(しい)氏たり、周に在りては唐杜氏たり、晉の夏盟を主(つかさど)るや范氏たり」と。范氏は晉の士師と為り、魯の文公の世に秦に奔る。後に晉に歸するも、其の處る者 劉氏たり。劉向 云わく「戰國の時、劉氏 秦より魏に獲わる。秦の魏を滅ぼすや、大梁より遷りて、豐に都(あつ)まる。故に周巿(しゅうふつ)雍齒に說きて曰わく「豐は故と梁の徙なり」と。是を以て高祖を頌して云わく「漢帝の本系、唐帝より出づ。降りて周に及び、秦に在りて劉と作す。魏に涉りて東し、遂に豐公と為る」と。豐公、蓋し太上皇の父なり。其の遷りて日淺く、墳墓の豐に在ること鮮し。高祖の即位するに及び、祠祀の官を置き、則ち秦・晉・梁・荊の巫有り、世〻天地を祠り、之を綴るに祀を以てするは、豈に信ならざらんや。是に由りて之を推すに、漢は堯運を承け、德祚は已に盛んにして、蛇を斷ちて符を著し、旗幟は赤を上び、火德に協(あ)うは、自然の應にして、天統を得たり、と。

 

【訳文】

  十二年の冬十月、高祖は淮南王の布の軍を會𦉈において破り、淮南王の布は敗走し、(高祖は)別將に彼を追撃させた。

 高祖は帰還し、沛を訪ねて留まり、沛の宮で酒宴を設け、旧い知り合いや父老・子弟を召して、酒盛りの相伴をさせた。沛にいる子供たちを召しだし、百二十人を集めて、歌を教えた。酒宴の真っ盛りに、高祖は筑を撃ち、自ら歌って言った。「大風が起こって、雲は舞い上がる。我が威は天下をおおって、故郷に帰っていた。なんとか強く勇ましい武人を得て、四方を守らせたいものだ」。子供たち全員一緒に声をあわせてこの歌を練習させた。高祖はそこで立って舞い、感極まって悲しみいたみ、涙を数行流した。高祖は沛の父兄に話して言った。「遊子は、故郷を顧みて思うものだ。わしは関中に都しているが、死後も、わしの魂はなおも沛のことを、思い慕うだろう。かつ、朕は、沛公から事を行い、暴逆を誅して、最後には天下を治めることになったのだ。そこで沛を朕の湯沐の邑として、その民の夫役を免じ、代々夫役に従うことがないようにしよう」。沛の父老や老婆や高祖の旧い知り合いは、 日々、楽しく酒を飲み、歓楽を極めて往事を語り笑って楽しんだ。十数日経って、高祖が去ろうとすると、沛の父兄はかたく留まることを願った。高祖は言った。「わしの供は多いから、父兄が給養することはできないだろう」。やっと去った。沛では県を空にして、全員、沛の西に赴き、牛や酒を高祖に献じた。高祖はとどまり、三日にわたり、帳を張って酒宴を開いた。沛の父兄は全員、頭を地面にうちすえて言った。「沛は幸いにも夫役の免除を得られましたが、豊は、まだ得ていません。どうか陛下に、哀れんでいただけないでしょうか」。高祖は言った。「豊は、わしが生まれ育った土地であり、この上なく、忘れられないものである。わしはただ、豊が雍歯についてわしに叛き、魏の国の為に尽くしたために、そうしないのだ。」沛の父兄はかたく豊の夫役免除を願うと、ようやく沛とあわせて豊の夫役を免除し、沛と同等に扱った。

 漢の別動隊の将が黥布の軍を洮水の南北で攻撃し、すべて大いに破り、追撃して黥布を番陽で斬った。

 周勃が代を平定し、陳豨を当城で斬った。

 詔を下して言った。「呉は古の封国である。かつては荊王がその地を兼ねて保有し、今は(荊王の劉賈は黥布に殺されて)死し、跡継ぎもいない。朕はさらに呉王を立てようと思うので、呉王に立てるべき者について議せよ」と。長沙王の呉臣らが言った。「沛侯の劉濞は篤実で落ち着いているので、どうか呉王に立ててください」と。劉濞が呉王に拝せられると、高祖は劉濞を召して言った。「お前の姿かたちには反相が有る」と。そこで高祖は劉濞の背を撫でて言った。「漢は五十年後、東南で乱が起こるが、まさかお前ではあるまいな。そして天下は同姓一家のいわば家族であるから、ゆめゆめ反してくれるなよ」と。劉濞は頓首して言った。「そのようなことはけしていたしません」と。

 十一月、淮南から長安に帰還した。その途中で魯に立ち寄り、大牢を用いて孔子を祀った。

 十二月、詔を下して言った。「秦の皇帝、楚の隱王(陳勝)、魏の安釐王(魏圉)、斉の愍王(湣王の田地)、趙の悼襄王(趙偃)はみなすでに滅んで跡継ぎもいない。秦の始皇帝のためには墓守を二十家、楚の隱王・魏の安釐王・斉の愍王のためにはそれぞれ十家、趙および魏の公子亡忌(信陵君の魏無忌)のためにはそれぞれ五家を与え、その冢墓を監督させ、(それぞれの墓守の家については)賦税を免除してその他の事に関わらせないようにさせよ」と。

 陳豨の降將が、陳豨が反乱を起こす際に、燕王盧綰の使いの者が来て何やら謀をしていたことを言った。高祖は辟陽侯の審食其に燕王盧綰を迎えに行かせるが、盧綰は病気と称して出てこなかった。審食其は盧綰に反乱の兆しありと報告した。春二月、樊噲・周勃に兵を率いさせ盧綰を攻撃させた。(高祖は)詔して言った「燕王盧綰は私と縁故があり、彼を我が子の様に可愛がり、陳豨と謀をしていたと聞いても、私はその様なことはないと思ったので、人を使わして盧綰を迎えに行かせた。盧綰は病気と称して来ず、謀反は明らかである。燕の吏民には罪がないので、(秩禄の)六百石以上の吏にはそれぞれ爵一級を授けよ。盧綰と居ても、そこから去り(こちらへ)帰順する者は、罪を赦して爵一級を加えよ。」と。(そして)諸侯王に詔を出して新たに燕王となるべき人物について議論させ、長沙王臣等は子の劉建を立てて燕王とするよう願い出た。

 (高祖は)詔して言った「南武侯の織もまた粵の後嗣であるので、立てて南海王とせよ。」と。

 三月、詔して言った「私は立って天子となり、皇帝として天下に君臨して、今にいたるまで十二年である。天下の豪士賢大夫と共に天下を治め、一緒に天下を安撫した。その功労のある者で上であればこれを王にして、(上に)次ぐ者であれば列侯とし、下であれば食邑を与えた。また重臣の親戚は、あるいは列侯にして、皆自分で官吏を置いて、租税を得られるようにさせ、女子は公主とした。列侯となって領地からの収入を得ている者は、皆に印綬を帯びさせ、大きな邸宅を下賜した。(秩禄の)二千石の吏は、長安に移して、小さな邸宅を受けさせた。蜀漢に入り三秦の地をを治める者は、皆代々賦役を免除した。私は天下の賢士功臣についてはこのように(厚く遇)しているので、期待にそむいてはない。不義あって天子に背き好き勝手に兵を起こす者があれば、天下と共に討伐してその者を誅滅せん。(これを)天下に布告し、私の意を明確に知らしめよ。」と。

 高祖は英布を攻撃した時、流れ矢をうけ、道中で病んだ。病は甚だしかった。呂后は良い医者を迎えて来た。医者が(宮中に)入って面会すると、高祖は医者に(病気のことを)質問した。医者は「病を治せます」と語った。すると、高祖は医者を罵って言った。「わしは平民の身で剣をさげ持って天下を取ったのだ。これは天命でないだろうか。(人の)命が天に在るからには、(例え、古の名医である)扁鵲であったとしても、何ができようか」と。ついに病を治療させず、黄金五十斤を賜って、ひきとらせた。呂后は高祖に尋ねて、「陛下にもしものことがあった後、さらに、蕭相国が死んでしまったら、誰を(政務の最高責任者として蕭何の)代わりとしたら良いでしょうか」と言った。高祖は、「曹参がいいだろう」と言った。(呂后は)さらにその次(に代わるもの)を尋ねた。高祖は、「王陵がいいだろうが、少し愚直なところがあるので、陳平に王陵を補佐させるのがいいだろう。陳平の知恵は余り有るほどであるが、単独で任用するのは難しい。周勃は篤実で落ち着いているが、見栄えに乏しい。だが、劉氏を安泰にするものは必ず周勃であり、大尉にすべきだ」と言った。呂后はさらに次(に代わるもの)を尋ねた。高祖は言った。「この後は、お前が知ったことではない」。

 盧綰は数千の部下とともに長城がある場所にいて様子をうかがって、高祖の病が癒えれば、(高祖の病が癒えたら)、自分自身で入朝して詫びようと願った。夏の四月甲辰の日、帝(高祖)は長楽宮に崩じた。盧綰は高祖が崩御したことを聞いて、ついに逃げて匈奴に入った。

 呂后は審食其と謀って言った「諸将は以前には皇帝と同じく編戸の民であり、(今となってはその皇帝に対して)北向きに座る臣下となっている、心にはいつも不満が渦巻いており、そこで今幼い君主に仕えることになると、これを全て族滅しなければ、天下は安定しない。」と。そのため喪を発することはしなかった。とある人がこれを聞きつけ、酈商に話をした。酈商は審食其と会って言った「高祖はすでに崩御し、四日の間 喪を発せず、諸将を誅殺しようと聞いている。かりにその様にすれば、天下は危うくなる。陳平・灌嬰は十万の軍を率いて滎陽を守っており、樊噲・周勃は二十万の軍を率いて燕・代の地をおさめている。この状況で高祖が崩御し、諸将が全員誅殺されると聞き及べば、(彼らは)必ず兵を連ねて郷里に帰還し、そして関中を攻撃するだろう。内は大臣が叛き、外は諸将が逆らい、(我々は)足を高く上げて待つ時間もない。」と。審食其は宮中に入り(呂后に)このことを言った、そして丁未に喪を発し、天下に大赦をおこなった。

 五月丙寅、(高祖を)長陵に埋葬した。棺を下した後、皇太子と群臣は皆戻って太上皇の廟へと至った。群臣たちは言った「高祖は卑しい身分より決起し、乱世を治めて正しい道へと戻し、天下を平定して、漢の太祖となり、(その)功績は最も高いものです。」と。(そこで)尊号を奉り高皇帝といった。

 昔、高祖は学問を修めなかったが、その性は道理に通じ、謀を好み、(人の意見を)聞き入れることができ、自然と監門・戍卒に、会えば旧知の様に接していた。最初に民心にしたがい三章の盟約を作った。天下が定まってからは蕭何に命じて律令を編次させ、韓信に軍法を発布させ、張蒼に章程を規定させ、叔孫通に禮儀を制定させ、陸賈に『新語』を編纂させた。また功臣に剖符を与えて誓約をなし、丹書鐵契をつくり、金匱石室におさめて、これを宗廟に収蔵した。(高祖は)一日一日と多事に汲汲として暇は無かったとはいえ、立てられた制度や垂れた規範は広く(網羅して)遠大なものであった。

 贊に言う。

 春秋の晉の史官である蔡墨にこのような言葉が残っている。「陶唐氏(堯)がもう衰えて、その後裔に劉累という者がいて、龍を御する術を学び、(夏の天子である)孔甲に仕えました。范氏はその(劉累の)後裔です」と。そして(晋の)大夫の范宣子もまた言っている。「(我が)祖先は虞(舜)より前の時代は陶唐氏であり、夏の時代には(劉累以来)御龍氏であり、商(殷)の時代には豕韋氏であり、周の時代には唐杜氏であり、晋(覇者となって)中華の盟を主宰するようになると范氏となりました」と。范氏は晋の士師(禁令・刑獄を司る官職)となり、魯の文公の時代に(范会は)秦に亡命した。後に(范会とその妻子は)晋にまた帰順したが、そのまま秦に居座った者は劉を氏とした。劉向は言った「戦国の時、劉氏は秦から魏の捕虜となった。秦が魏を滅ぼすと、(魏に捕らわれた劉氏は)大梁から移動して、豊に集まった。だから周巿は雍齒に説いて言ったのである。「豊はもともと梁の人々が移った地である」と。そこで高祖の頌に言うには「漢帝の本系は、唐帝(堯)から出たものである。時代を降って周になると、秦に在って劉を氏とした。魏に移って東に行き、遂に豊公と為った」と。豊公は思うに太上皇の父である。豊に移ってから日が浅く、(劉氏の)墳墓は豊にはほとんどない。高祖が即位すると、祠祀の官を置き、そこで秦・晉・梁・荊の巫を設け、代々天地を祠り、祀を続けさせたのは、なんと信なることであろうか。これによって推察するに、漢は堯運を継承し、徳祚は已に盛んであり、蛇を断って符をあらわし、旗幟は赤を尊び、火徳にかなうのは、自然の理に沿うものであって、天統を得ているものだと。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,10,15 (発表者 すぐろ)

2017,10,22 (発表者 まめ)

2017,11,05 (発表者 董卓(護倭中郎将) )

2017,11,19(発表者 すぐろ)

2017,12,3(発表者 まめ)

2017,12,17(発表者 すぐろ)

2017,12,24(発表者 董卓(護倭中郎将) )