十年

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【原文】

 十年冬十月、淮南王・燕王・荊王・梁王・楚王・齊王・長沙王來朝。 

 夏五月、太上皇后崩。秋七月癸卯、太上皇崩、葬萬年。赦櫟陽囚死罪以下。 

 八月、令諸侯王皆立太上皇廟于國都。 

 九月、代相國陳豨反。上曰「豨嘗為吾使、甚有信。代地吾所急故封豨為列侯、以相國守代、今乃與王黃等劫掠代地。吏民非有罪也、能去豨・黃來歸者、皆赦之。」上自東、至邯鄲。上喜曰「豨不南據邯鄲而阻漳水。吾知其亡能為矣。」趙相周昌奏、常山二十五城亡其二十城、請誅守尉。上曰「守尉反乎。」對曰「不。」上曰「是力不足、亡罪。」上令周昌選趙壯士可令將者、白見四人。上嫚罵曰「豎子能為將乎。」四人慚、皆伏地。上封各千戸、以為將。左右諫曰「從入蜀漢、伐楚、賞未遍行、今封此、何功。」上曰「非汝所知。陳豨反、趙代地皆豨有。吾以羽檄徵天下兵、未有至者、今計唯獨邯鄲中兵耳。吾何愛四千戸、不以慰趙子弟。」皆曰「善。」又求「樂毅有後乎。」得其孫叔、封之樂郷、號華成君。問豨將、皆故賈人。上曰「吾知與之矣。」乃多以金購豨將、豨將多降。

 

【訓読】

 十年冬十月、淮南王・燕王・荊王・梁王・楚王・齊王・長沙王 來朝す。 

 夏五月、太上皇后 崩ず。秋七月癸卯(きぼう)、太上皇 崩じ、萬年に葬す。櫟陽の囚の死罪以下を赦す。 

 八月、諸侯王をして皆 太上皇の廟を國都に立てしむ。 

 九月、代の相國の陳豨 反す。上曰く「豨 嘗て吾が為に使し、甚(はなは)だ信有り。代の地は吾が急とする所なるが故に豨を封じて列侯と為し、相國を以て代を守せしむるに、今、乃ち王黃等と與(とも)に代の地を劫掠(きょうりゃく)す。吏民 罪有るに非ざれば、能く豨・黃を去りて來り歸す者、皆な之を赦せ」と。上 自ら東して、邯鄲に至る。上 喜びて曰く「豨 南のかた邯鄲に據りて漳水を阻まず。吾 其の能く為す亡きを知れり」と。趙の相の周昌奏すらく、常山の二十五城、其の二十城を亡(うしな)えたれば、守・尉を誅せんことを請うと。上曰く「守・尉 反せるや」と。對(こた)えて曰く「不(しか)らず」と。上曰く「是れ力の足らざるなれば、罪亡し」と。上 周昌をして趙の壯士の將たらしむべき者を選ばしめ、白(もう)して四人に見(あ)う。上嫚罵(まんば)して曰く「豎子 能く將と為らんや」と。四人 慚じて、皆な地に伏す。上 各〻千戸に封じ、以て將と為す。左右諫めて曰く「從いて蜀・漢に入り、楚を伐ち、賞未だ遍く行かざるに、今此を封ずるは、何れの功ありてか」と。上曰く「汝の知る所に非ず。陳豨反し、趙・代の地は皆な豨有す。吾 羽檄を以て天下の兵を徵し、未だ至る者有らざれば、今は唯だ獨り邯鄲中の兵を計(かぞ)うるのみ。吾 何ぞ四千戸を愛(おし)みて、以て趙の子弟を慰めざらんや」と。皆な曰く「善し」と。又た求むらく「樂毅は後有りや」と。其の孫の叔を得、之を樂郷に封じ、華成君と號す。豨の將を問うに、皆な故(も)と賈人なり。上曰く「吾 之に與(あ)たるを知れり」と。乃ち多く金を以て豨の將を購い、豨の將 多く降る。

 

【訳文】

 十年冬十月、淮南王・燕王・荊王・梁王・楚王・齊王・長沙王が来朝した。 

 夏五月、太上皇后が亡くなった。秋七月癸卯、太上皇が亡くなり、萬年に葬った。櫟陽の囚人で死罪以下の者を赦免した。 

 八月、全ての諸侯王に各国都に太上皇の廟を立てさせた。 

 九月、代の相国である陳豨が反乱を起こした。高祖は言った。「陳豨はかつて私のために使者として働き、非常に信用を置いていた。代の地は吾の重視している地であるので、陳豨を列侯に封じ、相国に任じて代を治めさせたのに、今に至って王黄らとともに代の地を脅し略奪している。吏民に罪があるわけではないから、陳豨・王黄のもとを去ることができて帰順した者は、すべて赦すように」と。高祖は自ら東行し、邯鄲に到着した。高祖は喜んで言った。「陳豨は南のかた邯鄲に拠点を置いて漳水を阻むことをしなかった。私は、陳豨が事を成就させることができないということが分かった」と。趙の相の周昌が上奏するには、常山の二十五城のうち二十城を失ったので、常山太守と・郡尉を誅殺すべきです、と。高祖は言った。「常山太守と郡尉は反乱に参加したのか」と。周昌は答えた。「そういうわけではございません」と。高祖は言った。「これは力が足りなかったためであり、罪はない」と。高祖は周昌に命じて趙の壮士で将とするのにふさわしい者を選ばせ、周昌は高祖に申して四人を召見させた。高祖は口ぎたなく罵って言った。「小僧どもよ、将となることができるのか」と。四人は恥じて、みな平伏した。高祖は四人をそれぞれ千戸に封じ、将に任じた。左右の者は諫めて言った。「高祖に従って蜀漢に入り、楚を伐って、その賞はまだみなに行き届いていないのに、今この四人を封ずるのは、何の功があってのことですか」と。高祖は言った。「お前の知る所ではない。陳豨が反し、趙・代の地は皆な陳豨の手に落ちた。私は羽檄を発して天下の兵を徴発したが、まだ至る者がいないから、今、我が軍はただ邯鄲中の兵を数えるのみである。私はどうして四千戸を惜しんで、以て趙の子弟を慰めないなんてことをしようか」と。みな言った。「素晴らしい」と。また、「楽毅の子孫はいるのか」と求め、楽毅の孫の楽叔を見つけ出し、楽叔を楽郷に封じ、華成君と呼んだ。陳豨の将について問うと、陳豨の将はみなもともと賈人であったという。高祖は言った。「私は陳豨に対抗する術があると分かった」と。そこで多く賞金を設けて陳豨の将を誘い募ったところ、陳豨の将の多くが降った。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,9,10(発表者 すぐろ)

2017,9,17 (発表者 董卓(護倭中郎将))