高帝紀

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【原文】

 師古曰「紀、理也、統理眾事而繫之於年月者也。」 

 高祖、沛豊邑中陽里人也。姓劉氏。母媼嘗息大沢之陂、夢与神遇。是時雷電晦冥、父太公往視、則見交竜於上。已而有娠、遂産高祖。 

 高祖為人、隆準而竜顔、美須髯、左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。常有大度、不事家人生産作業。及壮、試吏、為泗上亭長、廷中吏無所不狎侮。好酒及色。常従王媼・武負貰酒、時飲酔臥、武負・王媼見其上常有怪。高祖毎酤留飲、酒讎数倍。及見怪、歳竟、此両家常折券棄責。 

 高祖常繇咸陽、縦観秦皇帝、喟然大息、曰「嗟乎、大丈夫当如此矣。」 

 単父人呂公善沛令、辟仇、従之客、因家焉。沛中豪傑吏聞令有重客、皆往賀。蕭何為主吏、主進、令諸大夫曰「進不満千銭、坐之堂下。」高祖為亭長、素易諸吏、乃紿為謁曰「賀銭万。」、実不持一銭。謁入、呂公大驚、起、迎之門。呂公者、好相人、見高祖状貌、因重敬之、引入坐上坐。蕭何曰「劉季固多大言、少成事。」高祖因狎侮諸客、遂坐上坐、 

無所詘。酒闌、呂公因目固留高祖。竟酒、後。呂公曰「臣少好相人、相人多矣、無如季相、願季自愛。臣有息女、願為箕帚妾。」酒罷、呂媼怒呂公曰「公始常欲奇此女、与貴人。沛令善公、求之不与,何自妄許与劉季」呂公曰「此非児女子所知。」卒与高祖。呂公女即呂后也、生孝恵帝・魯元公主。 

 高祖嘗告帰之田。呂后与両子居田中、有一老父過請飲、呂后因餔之。老父相后曰「夫人天下貴人也。」令相両子、見孝恵帝、曰「夫人所以貴者、乃此男也。」相魯元公主、亦皆貴。老父已去、高祖適従旁舎来、呂后具言客有過、相我子母皆大貴。高祖問、曰「未遠」乃追及、問老父。老父曰「鄉者夫人児子皆以君、君相貴不可言。」高祖乃謝曰「誠如父言、不敢忘徳」及高祖貴、遂不知老父処。 

 高祖為亭長、乃㠯竹皮為冠、令求盗之薛治、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」也。 

 高祖以亭長為県送徒驪山、徒多道亡。自度比至皆亡之、到豊西沢中亭、止飲、夜皆解縦所送徒。曰「公等皆去、吾亦従此逝矣」徒中壮士願従諸十余人。高祖被酒、夜径沢中、令一人行前。行前者還報曰「前有大蛇当径、願還。」高祖酔、曰「壮士行、何畏」乃前、抜剣斬蛇。蛇分為両、道開。行数里、酔困臥。後人来至蛇所、有一老嫗夜哭。人問嫗何哭、嫗曰「人殺吾子」人曰「嫗子何為見殺」嫗曰「吾子、白帝子也、化為蛇、当道、今者赤帝子斬之、故哭」人乃以嫗為不誠、欲苦之、嫗因忽不見。後人至、高祖覚。告高祖、高祖乃心独喜、自負。諸従者日益畏之。 

 秦始皇帝嘗曰「東南有天子気」、於是東游以猒当之。高祖隠於芒・碭山沢間、呂后与人俱求、常得之。高祖怪問之。呂后曰「季所居上常有雲気、故従往常得季。」高祖又喜。沛中子弟或聞之、多欲附者矣。 

 秦二世元年秋七月、陳渉起蘄、至陳、自立為楚王、遣武臣・張耳・陳余略趙地。八月、武臣自立為趙王。郡県多殺長吏以応渉。九月、沛令欲以沛応之。掾・主吏蕭何・曹参曰「君為秦吏、今欲背之、帥沛子弟、恐不聴。願君召諸亡在外者、可得数百人、因以劫眾、眾不敢不聴」乃令樊噲召高祖。高祖之眾已数百人矣。 

 於是樊噲従高祖来。沛令後悔、恐其有変、乃閉城城守、欲誅蕭・曹。蕭・曹恐、踰城保高祖。高祖乃書帛射城上、与沛父老曰「天下同苦秦久矣。今父老雖為沛令守、諸侯並起、今屠沛。沛今共誅令、択可立立之、以応諸侯、即室家完。不然、父子俱屠、無為也」父老乃帥子弟共殺沛令、開城門迎高祖、欲以為沛令。高祖曰「天下方擾、諸侯並起、今置将不善、一敗塗地。吾非敢自愛、恐能薄、不能完父兄子弟。此大事、願更択可者。」蕭・曹等皆文吏、自愛、恐事不就、後秦種族其家、尽譲高祖。諸父老皆曰「平生所聞劉季奇怪、当貴、且卜筮之、莫如劉季最吉」高祖数譲。眾莫肯為、高祖乃立為沛公。祠黄帝、祭蚩尤於沛廷、而釁鼓旗。幟皆赤、由所殺蛇白帝子、所殺者赤帝子故也。於是少年豪吏如蕭・曹・樊噲等皆為収沛子弟、得三千人。 

 是月、項梁与兄子羽起呉。田儋与従弟栄・横起斉、自立為斉王。韓広自立為燕王。魏咎自立為魏王。陳渉之将周章西入関、至戯、秦将章邯距破之。 

 秦二年十月、沛公攻胡陵・方与、還守豊。秦泗川監平将兵囲豊。二日、出与戦、破之。令雍歯守豊。十一月、沛公引兵之薜。秦泗川守壮兵敗於薛、走至戚、沛公左司馬得殺之。沛公還軍亢父、至方与。趙王武臣為其将所殺。十二月、楚王陳渉為其御荘賈所殺。魏人周市略地豊沛、使人謂雍歯曰「豊、故梁徙也、今魏地已定者数十城。歯今下魏、魏以歯為侯守豊。不下、且屠豊。」雍歯雅不欲属沛公、及魏招之、即反為魏守豊。沛公攻豊、不能取。沛公還之沛、怨雍歯与豊子弟畔之。 

 正月、張耳等立趙後趙歇為趙王。東陽甯君・秦嘉立景駒為楚王、在留。沛公往従之、道得張良、遂与俱見景駒、請兵以攻豊。時章邯従陳、別将司馬夷将兵北定楚地、屠相、至碭。東陽甯君・沛公引兵西、与戦蕭西、不利、還収兵聚留。二月、攻碭、三日抜之。収碭兵、得六千人、与故合九千人。三月、攻下邑、抜之。還撃豊、不下。四月、項梁撃殺景駒・秦嘉、止薛、沛公往見之。項梁益沛公卒五千人、五大夫将十人。沛公還、引兵攻豊、抜之。雍歯奔魏。 

 五月、項羽抜襄城還。項梁尽召別将。六月、沛公如薛,与項梁共立楚懐王孫心為楚懐王。章邯破殺魏王咎、斉王田儋於臨済。七月、大霖雨。沛公攻亢父。章邯囲田栄於東阿。沛公与項梁共救田栄、大破章邯東阿。田栄帰、沛公・項羽追北、至城陽、攻屠其城。軍濮陽東、復与章邯戦、又破之。 

 章邯復振、守濮陽、環水。沛公・項羽去攻定陶。八月、田栄立田儋子市為斉王。定陶未下、沛公与項羽西略地至雍丘、与秦軍戦、大敗之、斬三川守李由。還攻外黄、外黄未下。 

 項梁再破秦軍、有驕色。宋義諫、不聴。秦益章邯兵。九月、章邯夜銜枚撃項梁定陶、大破之、殺項梁。時連雨自七月至九月。沛公・項羽方攻陳留、聞梁死、士卒恐、乃与将軍呂臣引兵而東、徙懐王自盱台都彭城。呂臣軍彭城東、項羽軍彭城西、沛公軍碭。魏咎弟豹自立為魏王。 

 後九月、懐王并呂臣・項羽軍自将之。以沛公為碭郡長、封武安侯、将碭郡兵。以羽為魯公、封長安侯、呂臣為司徒、其父呂青為令尹。 

 章邯已破項梁、以為楚地兵不足憂、乃渡河北撃趙王歇、大破之。歇保鉅鹿城、秦将王離囲之。趙数請救、懐王乃以宋義為上将、項羽為次将、范増為末将、北救趙。 

 初、懐王与諸将約、先入定関中者王之。当是時、秦兵彊、常乗勝逐北、諸将莫利先入関。独羽怨秦破項梁、奮勢、願与沛公西入関。懐王諸老将皆曰「項羽為人慓悍禍賊、嘗攻襄城、襄城無噍類、所過無不残滅。且楚数進取、前陳王・項梁皆敗、不如更遣長者扶義而西、告諭秦父兄。秦父兄苦其主久矣。今誠得長者往、毋侵暴、宜可下。項羽不可遣、独沛公素寛大長者。」卒不許羽、而遣沛公西収陳王・項梁散卒。乃道碭至陽城与杠里、攻秦軍壁、破其二軍。 

 秦三年十月、斉将田都畔田栄、将兵助項羽救趙。沛公攻破東郡尉於成武。十一月、項羽殺宋義、并其兵渡河、自立為上将軍、諸将黥布等皆属。十二月、沛公引兵至栗、遇剛武侯、奪其軍四千余人、并之、与魏将皇欣・武満軍合、攻秦軍、破之。故斉王建孫田安下済北、従項羽救趙。羽大破秦軍鉅鹿下、虜王離、走章邯。 

 二月、沛公従碭北攻昌邑、遇彭越。越助攻昌邑、未下。沛公西過高陽、酈食其為里監門、曰「諸将過此者多、吾視沛公大度」乃求見沛公。沛公方踞鄭、使両女子洗。酈生不拝、長揖曰「足下必欲誅無道秦、不宜踞見長者」於是沛公起、摂衣謝之、延上坐。食其説沛公襲陳留。沛公以為広野君、以其弟商為将、将陳留兵。三月、攻開封、未抜。西与秦将楊熊会戦白馬、又戦曲遇東、大破之。楊熊走之滎陽、二世使使斬之以徇。四月、南攻潁川、屠之。因張良遂略韓地。 

 時趙別将司馬卬方欲渡河入関、沛公乃北攻平陰、絶河津。南、戦雒陽東、軍不利、従轘轅至陽城、収軍中馬騎。六月、与南陽守齮戦犨東、破之。略南陽郡、南陽守走、保城守宛。沛公引兵過宛西。張良諫曰「沛公雖欲急入関、秦兵尚眾、距険。今不下宛、宛従後撃、彊秦在前、此危道也」於是沛公乃夜引軍従他道還、偃旗幟、遅明、囲宛城三帀。南陽守欲自剄、其舎人陳恢曰「死未晩也」乃踰城見沛公、曰「臣聞足下約先入咸陽者王之、今足下留守宛。宛郡県連城数十、其吏民自以為降必死、故皆堅守乗城。今足下尽日止攻、士死傷者必多。引兵去宛、宛必随足下。足下前則失咸陽之約、後有彊宛之患。為足下計、莫若約降、封其守、因使止守、引其甲卒与之西。諸城未下者、聞声争開門而待足下、足下通行無所累」沛公曰「善」七月、南陽守齮降、封為殷侯、封陳恢千戸。引兵西、無不下者。至丹水、高武侯鰓・襄侯王陵降。還攻胡陽、遇番君別将梅鋗、与偕攻析・酈、皆降。所過毋得鹵掠、秦民喜。遣魏人甯昌使秦。是月章邯舉軍降項羽、羽以為雍王。瑕丘申陽下河南。 

 八月、沛公攻武関、入秦。秦相趙高恐、乃殺二世、使人来、欲約分王関中、沛公不許。九月、趙高立二世兄子子嬰為秦王。子嬰誅滅趙高、遣将将兵距嶢関。沛公欲撃之、張良曰「秦兵尚彊、未可軽。願先遣人益張旗幟於山上為疑兵、使酈食其・陸賈往説秦将、啗以利」秦将果欲連和、沛公欲許之。張良曰「此独其将欲叛、恐其士卒不従、不如因其怠懈撃之」沛公引兵繞嶢関、踰蕢山、撃秦軍、大破之藍田南。遂至藍田、又戦其北、秦兵大敗。

 

【訓読】

 師古曰く「紀、理なり、眾事を統理し而して之を年月に繋ぐ者なり」 

 高祖、沛豊邑中陽里の人なり。姓は劉氏。母媼 嘗て大沢の陂に息し、夢みて神と遇う。是の時 雷電ありて晦冥し、父の太公 往きて視るに、則ち竜の上で交るを見る。已みて娠あり、遂に高祖を産む。 

 高祖の為人(ひととなり)、隆準にして竜顔、須髯を美しくし、左の股に七十二の黒子あり。寛仁にして人を愛し、意は豁如なり。常に大度あり、家人の生産作業に事せず。壮に及び、吏を試み、泗上の亭長となり、廷中の吏 狎侮せざる所なし。酒を好み色に及ぶ。常に王媼・武負に従い酒を貰い、時に飲み酔いて臥し、武負・王媼その上に常に怪あるを見る。高祖毎に酤し留飲して、酒は数倍に讎る。怪を見るに及び、歳竟りて、此の両家常に券を折りて責を棄つ。 

 高祖常に咸陽に繇(よう)し、秦の皇帝を縦観し、喟然大息して、曰く「ああ、大丈夫 当に此くのごとくあるべし」 

 単父の人 呂公 沛の令に善くし、仇を辟(さ)け、之に客として従い、家に因る。沛中の豪傑の吏 令に重客あるを聞き、皆 往きて賀す。蕭何 主吏となり、進を主り、諸大夫に令して曰く「進げるに千銭に満たざれば、これを堂下に坐さしめん。」高祖 亭長となり、素より諸吏を易(やす)んじ、乃ち謁を紿(あざむ)きて曰く「賀銭万」、実は一銭も持たず。謁して入り、呂公は大いに驚き、起きて、これを門に迎う。呂公は、好く人を相、高祖の状貌を見て、因りて重くこれを敬い、引き入れて上坐に坐さしむ。蕭何 曰く「劉季 固より大言を多くし、成事を少なくす。」高祖 因りて諸客を狎侮(ぶこく)し、遂に上坐に坐し、詘(くっ)する所なし。酒 闌(た)け、呂公 目に因りて固く高祖を留む。酒を竟えてより後、呂公 曰く「臣 少くして好く人を相て、人を相ること多く、季の相のごときはなし、季の自愛するを願わん。臣に息女あり、願くば箕帚(きそう)の妾となさんと。」酒 罷み、呂の媼 呂公に怒りて曰く「公 始めは常に此の女を奇なりとして貴人を与えんと欲す。沛の令 公に善くし、これを求めても与えず、何ぞ自ら妄りに劉季に与えるを許すか」呂公 曰く「此れ児女子の知る所に非ず。」卒に高祖に与う。呂公の女 即ち呂后なり、孝恵帝・魯元公主を生む。 

 高祖 嘗て告い帰りて田に之く。呂后と両子田中に居し、一老父有りて過ぎりて飲を請い、呂后 因りて之に餔わす。老父 后を相て曰く「夫人は天下の貴人なり。」両子を相さしむに、孝恵帝を見て、曰く「夫人の貴なる所以は、乃ち此の男なり。」魯元公主を相、亦た皆貴とす。老父 已に去り、高祖 適たま旁舎従り来、呂后 具に客有りて過ぎり、我が子母を相て皆大貴とするを言う。高祖 問い、曰く「未だ遠からず」乃ち追いて及び、老父を問う。老父 曰く「鄉者の夫人児子 皆君を以ってし、君の相の貴きは言うべからず。」高祖 乃ち謝して曰く「誠に父の言のごとくなれば、敢えて徳を忘れず」高祖の貴なるに及び、遂に老父の処を知らず。 

 高祖 亭長為りて、乃ち竹皮を㠯(も)って冠を為さんとし、求盗をして薛に之き治らしめ、時時これを冠し、貴なるに及びて常に冠し、所謂「劉氏冠」なり。 

 高祖 亭長たるを以って県の為に徒を驪山に送り、徒 多く道亡す。自ら度るに比至するには皆之を亡わんと、豊西の沢中の亭に到り、止まりて飲み、夜に皆 送る所の徒を解縦す。曰く「公等 皆去り、吾れ亦た此従り逝かん」徒中の壮士願いて従う者十余人。高祖 酒を被り、夜に沢中を径り、一人をして前に行かしむ。行前の者 還り報じて曰く「前に大蛇有りて径に当る、還らんことを願う。」高祖 酔い、曰く「壮士 行かん、何ぞ畏れるか」乃ち前み、剣を抜きて蛇を斬る。蛇 分ちて両を為し、道 開く。行くこと数里、酔い困れて臥す。後人 来りて蛇の所に至るに、一老嫗有りて夜に哭す。人 嫗の何ぞ哭するかを問い、嫗 曰く「人 吾が子を殺す」人 曰く「嫗の子 何が為に殺さるか」嫗 曰く「吾が子、白帝の子なり、化して蛇と為り、道に当り、今者 赤帝の子 之を斬り、故に哭す」人 乃ち嫗を以って不誠と為し、之を苦しめんと欲するも、嫗 因って忽ち見えず。後に人至りて、高祖 覚める。高祖に告ぐるに、高祖 乃ち心は独り喜び、自負す。諸〱の従う者日に益〱之を畏る。 

 秦始皇帝は嘗て曰く「東南に天子気有り」と、是に於て東游し以て猒(ふさ)ぎて之に当つ。高祖は芒(ぼう)・碭(とう)山沢間に隠れ、呂后と人は俱に求め、常に之を得ん。高祖之を怪みて問う。呂后曰く「季の居る所、上は常に雲気有り、故に従いて往かば常に季を得ん。」高祖又た喜ぶ。沛中子弟は或いは之を聞き、附くことを欲する者多し。 

 秦二世元年秋七月、陳渉蘄(き)に起つ、陳に至る、自立して楚王と為る、武臣・張耳・陳余を遣りて趙地を略す。八月、武臣自立して趙王と為る。郡県多くは長吏を殺すを以て渉に応ずる。九月、沛令は沛を以て之に応じんと欲す。掾・主吏の蕭何・曹参曰「君は秦吏為り、今之に背き、沛子弟を帥(ひき)いんと欲すれども、恐らくは聴かず。願わくは君に諸(もろもろ)の亡(に)げて外に在る者を召し、数百人を得る可し、因りて眾を劫(おど)すを以てせば、眾は聴かざること敢えてせざりき」乃ち樊噲に高祖を召さしむ。高祖之眾は已に数百人。 

 是に於て樊噲は高祖の来たるに従う(※樊噲は高祖を従えて来たる)。沛令後に悔やみ、其の変有るを恐れ、乃ち城を閉じて城守し、蕭・曹を誅さんと欲す。蕭・曹恐れ、城を踰(こ)え高祖に保たれん。高祖乃ち帛に書きて城上に射ち、沛父老に与えて曰く「天下は秦の苦しみを同じくすること久しき矣。今父老と雖も沛令が為に守らば、諸侯は並び起ち、今に沛を屠らん。沛は今こそ共に令を誅し、立つ可きを択びて之を立て、諸侯に応ずるを以て、即ち室家は完うす。然らざらば、父子は俱に屠られ、無為なる也」父老乃ち子弟を帥い共に沛令を殺し、城門を開き高祖を迎え、沛令を以て為さんと欲す。高祖曰く「天下は方に擾れ、諸侯は並び起ち、今将を置きて善からざらば、一敗して地に塗れん。吾れ敢えて自愛するに非ざるも、能薄かりて、父兄子弟を完うするに能わざるを恐る。此の大事、願わくは更めて者を択ぶ可し。」蕭・曹等皆文吏、自愛して、後に秦に其の家を種族せらる事を恐れて就かず、尽く高祖に譲る。諸父老は皆な曰く「平生の劉季を聞く所奇怪なり、当に貴ぶべし、且た之を卜筮するも、劉季が最も吉かりて如く莫しと」高祖数た譲る。眾に肯じて為るもの莫く、高祖乃ち立ちて沛公と為る。黄帝を祠り、蚩尤を沛廷に祭り、而して鼓旗を釁(ち)ぬる。幟は皆赤く、殺す所の蛇は白帝の子にして、殺す者は赤帝の子なるに由っての故也。是に於て蕭・曹・樊噲等の如き少年豪吏は皆な沛子弟を収めるを為し、三千人を得ん。 

 是の月、項梁と兄子の羽は呉に起つ。田儋と従弟の栄・横は斉に起ち、自立して斉王と為る。韓広は自立して燕王と為る。魏咎は自立して魏王と為る。陳渉之将の周章は西より入関し、戯に至る、秦将の章邯は距(ふせ)ぎて之を破る。 

 秦二年十月、沛公は胡陵・方与を攻め、還りて豊を守る。秦の泗川監平は兵を将いて豊を囲む。二日にして、出でてこれと戦い、破る。雍歯に豊を守らす。十一月、沛公は兵を引きて薜に之く。秦の泗川守壮の兵に薛に於て敗れ、走げて戚に至る、沛公は左司馬得を之に殺す。沛公は軍を亢父に還し、方与に至る。趙王の武臣は其将の殺す所と為る。十二月、楚王の陳渉は其御の荘賈の殺す所と為る。魏人周市は豊沛を略地し、人を使い雍歯に謂わしめて曰く「豊は、故梁が徙さるる也、今魏地は已に定まる者(こと)数十城。歯が今魏に下らば、魏は歯を以て侯と為し豊を守らしむ。下らざれば、且に豊を屠らんとす。」雍歯雅(もと)より沛公に属するを欲さず、魏が之を招くに及び、即ち魏が為反して豊を守る。沛公は豊を攻むるも、取ること能わず。沛公は還りて沛に之き、雍歯と豊の子弟が之に畔(そむ)いたことを怨む。 

 正月、張耳等趙後に趙歇を立て趙王と為す。東陽甯君・秦嘉は景駒を立て楚王と為す、留に在る。沛公往きて之に従い、道に張良を得、遂に俱に景駒に見(まみ)え、兵を請うて以て豊を攻む。時の章邯は陳を従(じゅう)し、別将司馬に兵を将わしめ北より楚地を定め、相を屠り、碭に至る。東陽甯君・沛公は兵を西に引きて、ともに蕭の西に戦うも、利せず、還りて兵を収め留に聚まる。二月、碭を攻め、三日にして之を抜く。碭兵を収め、六千人を得る、故にこれと合せて九千人なり。三月、下邑を攻め、之を抜く。還りて豊を撃つ、下せず。四月、項梁景駒・秦嘉を撃殺し、薛に留まる、沛公往きて之に見(まみ)ゆ。項梁は沛公の卒を五千人益し、五大夫十人を将わしめた。沛公還りて、兵を引きて豊を攻め、之を抜く。雍歯は魏に奔る。 

 五月、項羽は襄城を抜きて還る。項梁は尽く別将を召す。六月、沛公は薛に如(ゆ)き,項梁と共に楚懐王の孫の心を立て楚懐王と為す。章邯は魏王咎・斉王田儋を臨済に於て破りて殺す。七月、大いに霖雨す。沛公は亢父を攻む。章邯は田栄を東阿に囲む。沛公と項梁は共に田栄を救い、章邯を東阿に大いに破る。田栄は帰り、沛公・項羽は北(やぶ)れたるを追い、城陽に至る、攻めて其城を屠る。軍は濮陽の東に、復して章邯と戦い、又た之を破る。 

 章邯 復た振い、濮陽を守り、水を環らす。沛公・項羽 去りて定陶を攻む。八月、田栄 田儋の子市を立てて斉王と為す。定陶 未だ下せず、沛公と項羽 西して略地し雍丘に至り、秦軍と戦い、大いに之を敗り、三川の守李由を斬る。還りて外黄を攻めるも、外黄 未だ下らず。 

 項梁 再び秦軍を破り、驕色有り。宋義 諫めるも、聴かず。秦 章邯の兵を益す。九月、章邯 夜に銜枚して項梁を定陶に撃ち、大いに之を破り、項梁を殺す。時に連雨し七月自り九月に至る。沛公・項羽 方に陳留を攻めんとして、梁の死を聞き、士卒恐れ、乃ち将軍の呂臣と兵を引き東して、懐王を徙して盱台自り彭城に都す。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。魏咎の弟豹自ら立ちて魏王と為る。 

 後九月、懐王 呂臣・項羽の軍を并せ自ら之を将いる。沛公を以って碭郡の長と為し、武安侯に封じ、碭郡の兵を将いせしむ。羽を以って魯公と為し、長安侯に封じ、呂臣もて司徒と為し、其の父呂青もて令尹と為す。 

 章邯 已に項梁を破り、以為らく楚地の兵は憂うに足らずと、乃ち河を渡り北して趙王歇を撃ち、大いに之を破る。歇 鉅鹿の城を保ち、秦将の王離 之を囲む。趙 数〱請救し、懐王 乃ち宋義を以って上将と為し、項羽もて次将と為し、范増もて末将と為し、北して趙を救う。 

 初め、懐王と諸将 約すらく、先に入りて関中を定める者 之を王とせんと。是の時に当り、秦兵は彊く、常に勝ちに乗じて逐北し、諸将に先に関に入るを利とするは莫し。独り羽は秦の項梁を破るを怨み、奮勢して、沛公と西して関に入るを願う。懐王 諸〱の老将 皆曰く「項羽の為人は慓悍にして禍賊、嘗て襄城を攻め、襄城に噍類無く、過ぎる所は残滅せざる無し。且つ楚 数〱進取し、前に陳王・項梁 皆敗れ、更に長者を遣りて扶義して西し、秦の父兄に告諭するに如かず。秦の父兄 其の主久しきに苦しむ。今誠に長者の往くを得れば、侵暴すること毋く、宜しく下すべし。項羽 遣るべからず、独り沛公 素より寛大にして長者たり。」卒に羽を許さず、沛公を遣して西に陳王・項梁の散卒を収めしむ。乃ち碭に道して陽城と杠里に至り、秦軍の壁を攻め、其の二軍を破る。 

 秦三年十月、斉将田都は田栄に畔き、兵を将いて項羽を助け趙を救う。沛公は東郡尉を成武に於て攻め破る。十一月、項羽は宋義を殺す、其の兵を并せ渡河し、自立して上将軍と為り、諸将黥布等皆な属す。十二月、沛公兵を引きて栗に至り、剛武侯に遇い、其軍四千余人を奪い、之を并せ、魏将皇欣・武満の軍と合し、秦軍を攻め、之を破る。故ての斉王建の孫田安は済北(せいほく←地名の場合はセイ)を下し、項羽に従いて趙を救う。羽は大いに秦軍を鉅鹿下に破る、王離を虜え、章邯を走らす。 

 二月、沛公は碭より北して昌邑を攻め、彭越に遇う。越は昌邑を攻むるを助くるも、未だ下らず。沛公は西に高陽を過ぐ、酈食其が里の監門為り、曰く「諸将は此を過ぐる者多し、吾れ沛公を視るに大度なり」乃ち沛公に見えんと求む。沛公方に牀に踞し、両(ふたり)の女子に洗わしむ。酈生拝せず、長揖して曰ふ「足下は必ず秦の無道を誅さんと欲すれば、踞して長者に見ゆるは宜しからず」是に於て沛公起ち、衣を摂(ととの)えて之を謝し、上坐に延(まね)く。食其は沛公に説いて陳留を襲う。沛公は以て広野君と為し、以て其の弟商を将と為し、陳留兵を将わしむ。三月、開封を攻め、未だ抜かず。西に秦将楊熊と白馬に会戦す、又た曲遇東に戦い、之を大いに破る。楊熊走りて滎陽に之く、二世は使いをして之を斬らしめ以て徇す。四月、南に潁川を攻め、之を屠る。因りて張良は遂に韓地を略す。 

 時に趙の別将の司馬卬は方に渡河し関に入らんと欲するも、沛公乃ち北に平陰を攻め、河津を絶つ。南して、雒陽の東に戦うも、軍利せず、轘轅に従りて陽城に至り、軍中の馬騎を収む。六月、南陽守の齮と戦し犨の東に、之を破る。南陽郡を略し、南陽守は走げ、城を保ち宛を守る。沛公は兵を引きて宛を西に過ぐ。張良諫めて曰く「沛公急ぎ関に入らんと欲すると雖も、秦兵尚眾く、険に距ぐ。今宛を下さざらば、宛後ろ従り撃ち、彊秦を前に在りて、此れは危き道也」是に於て沛公乃ち夜に軍を引き他の道従り還り、旗幟を偃(ふ)せ、遅明、宛城を三帀(そう)に囲む。南陽守は自剄することを欲するも、其の舎人の陳恢が曰いて「死は未だ晩からざる也」乃ち城を踰え沛公に見(まみ)え、曰く「臣聞くに足下は先に咸陽に入りたる者之を王とするを約すと、今足下は宛に守を留む。宛は郡県に城の連なること数十、其の吏民は自(おのずか)ら以為らく降らば必ず死せると、故に皆堅守して乗城す。今足下が日を尽くし攻に止まらば、士に死傷せる者必ず多からん。兵を引き宛を去らば、宛は必ず足下に随わん。足下は前には則ち咸陽之約を失い、後に彊宛之患い有らん。足下が為に計らば、降を約するに若くは莫く、其の守を封ずるに、因りて守に止まらしめば、其の甲卒を引きて与に西に之かん。諸城未だ下らざる者、声を聞かば争いて開門して足下を待ち、足下の通行を累(わずらわ)す所無からん」沛公曰う「善し」。七月、南陽守齮降り、封じて殷侯と為し、陳恢を千戸に封ず。兵を西に引くに、下らざる者なし。丹水に至り、高武侯鰓・襄侯王陵降る。還りて胡陽を攻め、番君別将梅鋗に遇い、与に偕に析・酈(てき)を攻め、皆降る。過ぐる所鹵掠を得ること毋らしめ、秦の民は喜ぶ。魏人甯昌を遣りて秦に使わしむ。是の月章邯は軍を舉げ項羽に降り、羽以て雍王と為し。瑕丘の申陽が河南を下す。 

 八月、沛公は武関を攻め、秦に入る。秦相趙高は恐れ、乃ち二世を殺し、人を来たらしめ、分けて関中に王するを約すことを欲するも、沛公許さず。九月、趙高は二世の兄子子嬰を立て秦王と為す。子嬰趙高を誅滅し、将を遣りて将兵に嶢関に距がしむ。沛公之を撃たんと欲するも、張良曰く「秦兵尚彊し、未だ軽んずべからず。願わくは先に人を遣りますます旗幟を山上に於て張り疑兵を為し、酈食其・陸賈に往かしめて秦将を説き、啗うに利を以てせん」秦将果たして連なりて和するを欲し、沛公之を許さんと欲す。張良曰く「此れ独り其将が叛するを欲す、其の士卒が従わざるを恐る、其の怠懈に因りて之を撃つに如かず」沛公兵を引きて嶢関を繞し、蕢山を踰えて、秦軍を撃ち、大いに之を藍田の南に破る。遂に藍田に至り、又た其の北に戦い、秦兵は大敗す。

 

【訳文】

(漢書の注釈をつけた)顔師古は言う「紀とは道理であり、多くの物事を管理統括して、年月と結びつけたものである」と。 

 高祖劉邦は沛豊邑中陽里の人である。姓は劉氏。かつて(劉邦の)母が大きな沢の堤で休んでいると、夢の中で神と出会った。その時に雷電があって辺りが暗くなり、父の太公が(様子を)見に行くと、(劉邦の母の)上で竜が交わっているのを見た。それが止むと(母は)妊娠して高祖を産んだ。 

 高祖の容姿は、鼻が高く額は竜のようで、美しいヒゲをたくわえ、左の股に七十二個のホクロがあった。(性格は)慈悲深く人を愛し、心が広かった。いつも大きくかまえて、家の生業に従事しなかった。壮年になると官吏に試用され、泗上の亭長になり、役所の役人達といつも馴れ馴れしくしていた。酒と女を愛し、いつも王媼・武負から酒を貰い、機会あるごとに飲んで寝て、王媼・武負はその度に劉邦の上に怪異を見た。高祖はいつも一夜酒して飲み明かし、(王媼・武負の)売り上げは数倍になった。怪異を見るようになり、年が終わると、王媼・武負の家は(劉邦のツケの)証明書を折り債権を放棄した。 

 高祖はいつも咸陽に徭役へ行き、秦の始皇帝を垣間見ることがあり、感嘆してため息をついて言った「ああ、立派な男子たるものはあの様になるべきだ」と。 

 単父の人 呂公は沛の県令と親しく、仇を避けて、(県令の)客となり、家に住むようになった。沛県の豪傑や官吏は県令に賓客ありと聞いて、皆 その家に行きお祝いをした。蕭何は主吏となって、進物を管理し、諸大夫に命令して「進物が千銭に満たない者は、堂下に座らせましょう」と言った。高祖は亭長となり、前々から諸吏を軽蔑していたので、名刺に「賀万銭」と噓を書いたが、実は一銭も持っていなかった。(劉邦が)挨拶をして入ると、呂公は大変おどろき、起って門まで迎えに行った。呂公はよく人相を見る人で、高祖の人相をみて、(ただ者ではないと)彼を丁重に敬い、引き入れて上座に座らせた。蕭何は「劉邦はもとより大きな事を言うが、成し遂げた事は少ないのです」と言った。高祖は周りの皆を軽蔑して、結局上座に座り、おそれる様子が無かった。宴会も終わりに近づき、呂公は目で合図して(劉邦を)固く引きとどめた。宴会が終わった後、呂公は言った。「私は若い時から人相を見て、たくさんの人を見てきましたが、あなたの様な人相を見たことがなく、どうぞご自愛くださいませ。また私には娘がおりまして、願わくば妻としてくださいませんでしょうか」と。酒宴の後、呂公の妻は(この事について)大いに怒り「あなたは当初この娘をとても優れているとみて貴人に嫁がせようと思っていた。沛の県令はあなたと親しくし、娘を求めたが(あなたは)与えようとしなかったのに、どうして何も考えず劉邦に与えるのか」と言った。呂公は言う「このことについては女子供の知ったことではない」と。結局(娘を)劉邦に与えてしまった。呂公の娘は呂后であり、(後に)恵帝、魯元公主を産む。 

 高祖は以前に休暇を願い出て故郷へ行った。呂后と二子が田中の小屋に居ると、一人の老父がおとずれて飲み物を求め、呂后は食べ物を食べさせた。老父は呂后の人相を見て言った「あなたは天下の貴人です」と。(呂后は)二子も見てもらうと、(老父は)孝恵帝を見て、言った「あなた(呂后)が貴い理由は、この子(孝恵帝)がいるからです。」魯元公主を見て、これもまた貴とした。老父がすでに去り、高祖が偶然に傍らにある小屋から出てくると、呂后は客人がおとずれ、自分と二子を見て大変貴い人だとされた話を事細かに語った。高祖がどれくらい前のことか問うと、(呂后は)「まだそこまで遠くには行っていない」と言った。そこで高祖は後を追いたどり着くと、老父へ問うた。老父は言った「さっきの夫人と二子は皆あなたの存在があるため貴いのであり、あなたの人相の貴さは言うことができません。」と。高祖はお礼を言った「本当にあなたの言葉のとおりになったら、(あなたの)行いを忘れません。」と。(後に)高祖が貴人になると、とうとう老父の所在は分からないままであった。 

 高祖が亭長となってから、タケノコの皮で冠をつくろうとし、求盗に(職人のいる)薛へ行かせて冠を作らせ、いつもこれをかぶり、高貴の身となっても(休息の間は)常にかぶっていた、これがいわゆる「劉氏冠」である。 

 高祖は亭長の職務上県のために驪山へ(始皇帝陵建造の)刑徒を送るも、途中で逃亡する者が多数でてきた。(高祖は)自分の中で驪山に到着する頃には皆逃亡してしまうと考え、豊の西の沢中亭に着くと、立ち止まって酒を飲み、夜に引率してきた刑徒を全て解放した。(そして)「あなた達はみな去りなさい、私もここから去ろう」と言った。刑徒の中から気力盛んな十余人が従うことを願い出た。高祖は酒をあおり、夜に沢中の小道を一人先に行かせてたわたった。先行する人が引き返して(状況を)知らせて言った「前方に大蛇がいて小道をふさいでいるので、引き返しましょう。」高祖は酔って、言った「壮士が行くのだぞ、どうして恐れるだろうか。」そこで進み、剣を抜いて大蛇を斬った。斬られた蛇は二つに分かれ、道が開いた。高祖はさらに数理を行き、酔い疲れて寝てしまった。後から来た人が蛇の所に至ると、一人の老婆がいて夜に悼み泣いていた。人々は老婆がどうして泣いているのか問うと、老婆は言った「私の子が殺されたのです。」と。人々は(さらに)言った「あなたの子はどうして殺されたのですか。」老婆は言う「私の子は、白帝の子で、変化して蛇となり、道を塞いでいたところ、今来た赤帝の子が吾子を斬った、だから悼み泣いているのです。」人々はかえって老婆が偽りを述べているとして、いじめようとしたが、老婆の姿がにわかに見えなくなった。(その)人々が高祖のもとへ追い付くと、高祖は酔いから醒めた。(人々が)高祖に事の次第を知らせると、高祖は心中ひそかに喜び、これを自負した。高祖に従う諸士は日増しに彼を畏怖するようになった。 

 秦の始皇帝はかつていった「東南に天子の気がある」と、これによって東に巡遊してこれに対抗して防ごうとした。高祖は芒・碭山沢間に隠れたが、呂后は人と一緒に彼を求め、常に見つけることができた。高祖はこれを不思議に思って聞いた。呂后は「あなたのいるところには、上に常に雲気がある、だからそれを目指していけば、いつもあなたを見つけられる。」高祖はまた喜んだ。沛中の子弟はあるいはこれを聞いたことで、付き従いたいという者が多かったのだろうか。 

 秦二世元年秋七月、陳渉は蘄に挙兵し、陳まで進軍し、自立して楚王となった、武臣・張耳・陳余を派遣して趙地を攻略した。八月、武臣が自立して趙王となった。郡県は陳渉に応じる為に長吏を多く殺した。九月、沛の県令は沛ごとこれに応じて秦に背こうとした。主吏の蕭何・掾の曹参がいうには「閣下は秦の官吏です、今これに背いて、沛の子弟を率いようとしても、恐らくは誰も従わないでしょう。願わくは閣下にもろもろの逃げて外に居る者たちを召して、数百人を得て、それによって県の民を脅せば、民が敢えて聞かないということはないでしょう」そこで樊噲に高祖を召させた。高祖の集団は既に数百人にも達しようとしていた。 

 これによって樊噲は高祖が来た時に従う事になった。沛令は後から悔やんで、高祖によって変事があることを恐れ、城門を閉じて城を守り、また蕭・曹を誅殺しようとした。蕭・曹は恐れ、城を越えて高祖の集団に守られることとなった。高祖はそこで絹帛に書状をしたしめて城の中に射ち、沛父老に与えていった「天下は我々と同じように秦に苦しんで久しいことと思う。今もし父老といえども沛令のために沛を守るのであれば、諸侯が並び立っている今、そのうち沛を屠ってしまうだろう。沛国のものは今こそ県令を共に誅殺して、誅殺したことを証として自立することを選択し、諸侯に応じれば、すぐにでもお家は保たれよう。もしそうしなければ、我々は皆殺しにされ、何も残らないだろう」父老はそこで子弟をひきいて共に沛の県令を殺し、城門を開いて高祖を迎え、あたらしい沛の県令にしようとした。高祖曰く「天下はまさに乱れ、諸侯は並び起っており、今、将を置いて、その将が善くなければ、一敗地に塗れるだろう。私は自分の命が惜しいという訳ではないが、もし才能が足りなくて、父兄子弟を守ることが出来なかったらということが恐いのだ。この大事、願わくは改めて違う者を選んで欲しい。」蕭・曹らは皆文吏であり、自らを惜しんで、後に秦にその家の族滅されてしまうことを恐れて就こうとせず、みな高祖に譲ろうとした。諸父老は皆なこういった「いつもの劉季の有り様からして不思議な所が多く、まさにそれを貴ぶべきだろう、また占いでも、劉季が最もよくこれ以上の者はないと出ている」高祖は何度も譲った。しかし民衆の中でなろうとするものはおらず、高祖そこで自立して楚の制度に従って沛公となった。黄帝を祠り、蚩尤を沛廷に祭り、そして鼓旗を血で塗って祭った。旗幟は皆赤く染めたが、これは白帝の子であった白蛇を殺したのが、赤帝の子である劉季であったことを理由としていた。これによって蕭・曹・樊噲等のような少年豪吏が皆な沛の子弟を接収して、三千人を得た。 

 この月、項梁とその兄の子の項羽は呉に挙兵した。田儋と従兄弟の田栄・田横は斉に挙兵し、自立して斉王となった。韓広は自立して燕王となった。魏咎は自立して魏王となった。陳渉の将の周章は西から函谷関を突破し、戯に入った、秦の将の章邯はこれを防いで破った。 

 秦二年十月、沛公は胡陵・方与を攻めたが、戻って豊を守った。秦の泗川監平は兵を将いて豊を囲んだ。二日籠城した後、出撃してこれと戦い、破った。雍歯に豊を守らせた。十一月、沛公は兵を引いて薛に向かった。秦の泗川守壮の兵に薛で敗れ、逃げて戚へと行き、沛公は左司馬得をここで殺した。沛公は軍を亢父にもどし、方与に向かった。趙王の武臣はその部将に殺された。十二月、楚王の陳渉は御者の荘賈に殺された。魏の人周市は豊沛を攻略し、使いを雍歯に出してこういわせた。「豊は、かつて梁がうつされた土地であり、今は魏の地は已に定まること数十城にも達していて。歯が今魏に下るのであれば、魏は歯を侯として豊を守らせるだろう。下らなければ、いまにも豊を屠るであろう。」雍歯はもとから沛公に従う事を望んでいなかったため、魏が招くに及んで、すぐに魏の為に離反して豊を守った。沛公は豊を攻めたが、落とすことが出来なかった。沛公は戻って沛に向かい、雍歯と豊の子弟が離反したことをうらみに思った。 

 正月、張耳等は趙の後裔として趙歇を立て趙王とした。東陽甯君・秦嘉は景駒を立て楚王とし、留にいた。沛公は留にいってこれに従おうとし、道中で張良を得て、遂に一緒に景駒と会うことができ、兵を請うてそれで豊を攻めた。時の章邯は陳を追討し、別将司馬に兵をひきいさせて北から楚の地を平定し、相を屠り、碭に至った。東陽甯君・沛公は兵を西に引いて、ともに蕭の西に戦うも、不利だったので、退却して兵を収拾し留に集合した。二月、碭を攻め、三日でこれをおとした。碭兵を吸収して、六千人を得て、合せて九千人となった。三月、下邑を攻め、これを落とした。戻って豊を撃ったが、落とせなかった。四月、項梁は景駒・秦嘉を撃殺し、薛に留まる、沛公は薛にいって項梁と会った。項梁は沛公の兵士を五千人増やして、五大夫も十人ほど付けてやった。沛公は戻って、兵を引いて豊を攻め、これを落とした。雍歯は魏に退却した。 

 五月、項羽襄城を落として戻ってきた。項梁は別の場所に居た諸将を呼び寄せた。六月、沛公は薛に行き、項梁と共に楚懐王の孫の心を立てて楚懐王とした。章邯は魏王咎・斉王田儋を臨済で破り殺害した。七月、長雨が続いた。沛公は亢父を攻めた。章邯は田栄を東阿で囲んだ。沛公と項梁は共に田栄を救おうとし、章邯を東阿で大破した。田栄は帰り、沛公・項羽は敗れた章邯軍を追い、城陽に至って、攻め落とし城を屠った。軍は濮陽の東に、戻って章邯と戦い、またこれを撃破した。 

 章邯は再び体勢を立て直し、濮陽を守備し、河の水を城の周りにめぐらせた。沛公と項羽は濮陽から離れ定陶を攻撃した。八月に、田栄が田儋の子である田市を擁立して斉王とした。沛公と劉邦は定陶をいまだ攻め落とせず、西行して敵領を攻めとり、雍丘で秦軍と戦い、大いに撃破し、三川の守である李由を斬った。軍をもどして外黄を攻めたが、まだ外黄は落ちなかった。 

 項梁は再び秦軍を撃破したので、驕る様子があった。宋義が用心するよう諫めたが、聞く耳をもたなかった。秦は章邯の兵を増やした。九月、章邯は夜の内に兵馬に銜枚を咥えさせ項梁の軍を定陶で撃破し、項梁を殺害した。その頃は七月から九月にかけて雨が続いていた。沛公・項羽がちょうど陳留を攻めようとして、項梁戦死の報を聞き、士卒は不安に陥ったので、将軍の呂臣と兵を引き上げて東行し、懐王を盱台から彭城に移してここを都と定めた。呂臣軍は彭城の東に駐屯し、項羽軍は彭城の西に駐屯し、沛公の軍は碭郡に駐屯した。魏咎の弟である魏豹が自ら魏王となった。 

 閏九月、懐王は呂臣・項羽の軍を併せて自ら将いた。沛公を碭郡の長とし、武安侯に封じて、碭郡の兵を将いさせた。項羽を魯公とし、長安侯に封じて、呂臣を司徒として、彼の父である呂青を令尹とした。 

 章邯はすでに項梁を破り、楚の地の兵は憂うるに足らないと思い、黄河を渡り北行して趙王の歇を攻撃して、これを撃破した。趙王の歇は鉅鹿城に拠って守り、秦将の王離が城を包囲した。趙は頻繁に楚に対して救援の要請をおこない、懐王は宋義を上将に、項羽を次将に、范増もて末将に任じて、北行して趙を救援した。 

 はじめ、懐王は諸将と約束をした、先に関中を平定した者は王に任じようと。当時は、秦兵は精強であり、いつも勝に乗じて追撃を行っていたので、諸将の中で先に函谷関に入るのを都合よしとするものがいなかった。(その中で)一人項羽だけは秦が項梁を撃破して殺害したのを怨み、憤激しており、沛公と共に西行して函谷関へ入ることを願い出た。(しかし)懐王と多くの宿将達は皆口をそろえて言った「項羽の人となりは慓悍で激しいため禍根を残し、以前に襄城を攻略した際も、襄城から生き物がいなくなり、(項羽の軍が)通過したところでは皆殺しにあわなかった試しがない。その上楚は頻繁に侵攻を行い、前には陳涉・項梁が皆敗北しているので、ここは他に徳が高い名望のある者を派遣して大義名分を掲げて西行し、秦にいる父兄に対して広く告げ諭すに越したことはない。父兄は長い間秦の暴政に苦しんでいる。今かりに徳と名望を備えた者が行くことができれば、侵略して略奪する必要はなく、(おそらく敵は)服従させるのがよいでしょう。(よって)項羽は派遣すべきでなく、一人沛公だけは昔から寛容であり徳と名望を備えている。」と。最終的には項羽の派遣を許さず、沛公を西へ派遣して陳涉・項梁の散卒を収容させた。そこで(沛公は)進路を碭郡へとり、成陽と杠里へ至り、秦軍の砦を攻め、その二軍を撃破した。 

 秦三年十月、斉将田都は田栄にそむいて、兵をひきいて項羽を助け、趙を救う。沛公は東郡尉を成武で攻め破った。十一月、項羽は宋義を殺し、其の兵をあわせて渡河し、自立して上将軍となり、諸将黥布等は皆なこれに従った。十二月、沛公は兵を引いて栗に行き、剛武侯にあって、その軍四千余人を奪い、これを組み入れ、魏将皇欣・武満の軍と合同で、秦軍を攻め、これを破った。かつての斉王建の孫田安は済北を下して、項羽に従って趙を救った。羽は大いに秦軍を鉅鹿の下に破った、王離を捕虜として、章邯を敗走させた。 

 二月、沛公は碭を起点に北に進軍し昌邑を攻め、彭越にあう。越は昌邑を攻めるのを助けたが、昌邑はいまだ下らなかった。沛公は西に退却して高陽を過ぎてゆく際、酈食其が里の門兵をしており、彼がいうには「諸将でここを過ぎていくものは多かったが、私が見るに沛公は大きな度量が有る」そこで沛公に会うことを求めた。沛公はその時ひっくりかえって足をくみ上げ(状態は多論あり)、二人の女性に洗わせていた。酈生は彼を拝することなく、ただ長揖の挨拶をして言った「あなたが必ず秦の無道を誅したいと望んでいるなら、ひっくり返って足を組みながら長者に会おうというのは良くないことでしょうな。」これによって沛公は立ち上がり、衣服を整えて謝り、上座に招いた。酈食其は沛公に説いて陳留を襲った。沛公はこれによって彼を広野君とし、その弟の商を将とし、陳留兵を率いさせた。三月、開封を攻めたが、未だに抜くことができなかった。西に移動して秦将楊熊と白馬に会戦した、又た曲遇東に戦って、これを大いに破った。楊熊は敗走して滎陽に向かった、二世は使いにこれを斬らせて見せしめとした。四月、南に潁川を攻めて、これを屠った。これによって張良は遂に韓地を攻略できた。 

 このとき趙の別将の司馬卬は渡河し入関しようとしていたが、沛公はそこで北にむかい平陰を攻め、河津を渡れないようにした。南にいき、雒陽の東に戦ったが、軍は勝てず、轘轅という間道を通って(潁川方面の)陽城に向かい、軍中の馬騎を収容した。六月、南陽守の齮と戦って犨県の東に、之を破った。南陽郡を略し、南陽守は逃げ延びて、城を保って宛を守った。沛公は兵を引いて宛を西に過ぎた。張良は諫めていった「沛公といえども急いで関に入ろうとすれば、秦兵はまだまだ多く、険阻な場所に依ってふせぐにちがいない。今宛を下さなければ、宛軍は後ろを突き、強い秦を前にすることになって、これは危ない道だろう。」この諫めによって沛公は夜に軍を引き他の道から戻って、旗幟をふせ、未明、宛城を三重に囲んだ。南陽守は自害しようとしたが、其の側近の陳恢が「死ぬにはまだはやいです」といい、そこで城をこえて沛公と会見して、「私が聞くにあなたは先に咸陽に入るものを王とする約束で動いているとのことですが、今あなたは宛に留まっています。宛は郡県に城が数十も連なっており、その吏民は降れば必ず死んでしまうと自ら思い込んでおり、だから皆城に上って堅守しているのです。今あなたがいたずらに攻めるばかりで日をむざむざ攻撃をするばかりなら、死傷者が沢山でるでしょう。しかし兵を引いて宛を無視してゆけば、宛は必ずあなたの背後を狙うでしょう。あなたは前には咸陽の約束を失い、後ろには宛の強兵の憂いを抱えることになります。あなたの為に計るならば、降伏を約束してくれるほかは無く、もしその守を封侯し、そのまま守に留任させてくれるのであれば、その甲卒を引き一緒に西へ向かいましょう。諸城の未だ下っていないものは、その話を聞けば皆開門してあなたを待ち、あなたの通行をわずらわせることはないでしょう」といい、沛公は「善し」といった。七月、南陽守の齮はくだり、殷侯に封じられ、陳恢は千戸に封じられた。兵を西に引いてゆくと、下らないものはなかった。丹水に至ると、高武侯鰓・襄侯王陵が降った。戻って胡陽を攻め、番君の別将梅鋗と遇い、一緒に析・酈(てき)を攻め、皆くだった。通る場所においては略奪を禁じたため、秦の民は喜んだ。魏人甯昌を使いとして秦に派遣した。この月章邯は軍をあげて項羽に降り、羽は章邯を雍王とした。瑕丘の申陽を河南で下した。 

 八月、沛公は武関を攻め、秦に入った。秦相趙高は恐れ、そこで二世を殺し、使いをやり、関中を分けてともに王となろうともちかけたが、沛公は許さなかった。九月、趙高は二世の兄の子である子嬰を立て秦王とした。子嬰は趙高を誅滅し、将を派遣して将兵に嶢関で距がせた。沛公はこれを撃とうとしたが、張良曰く「秦兵はなお強いままで、未だ軽んずるべきではない。願わくは先に人を向かわせて、張る旗幟を山上に増やして疑兵とし、酈食其・陸賈に向かわせて秦将を説かせて、利によって喰らいましょう。」秦将は果たして皆降伏を望んでおり、沛公はこれを許そうとした。張良は「これはただその将が寝返りを望んでいるだけなので、その士卒は従わないおそれがあり、その懈怠に因ってこれを撃つべきである」といった。沛公は兵を引きて嶢を迂回し、蕢山をこえて、秦軍を撃ち、大いにこれを藍田の南に破った。遂に藍田に至り、また其の北に戦い、秦兵は大敗した。

 

翻訳実績 ≫ 元年

 

◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,1,8(発表者 すぐろ)

2017,1,15(発表者 すぐろ)

2017,1,22(発表者 大蔵春)

2017,1,29(発表者 大蔵春)

2017,2,5(発表者 すぐろ)

2017,2,12(発表者 大蔵春)

2017,2,19(発表者 大蔵春)