元年

高帝紀へ ≪ 翻訳実績 ≫ 二年

 

【原文】

 元年冬十月、五星聚于東井。沛公至霸上。秦王子嬰素車白馬、係頸以組、封皇帝璽符節、降枳道旁。諸將或言誅秦王、沛公曰「始懷王遣我、固以能寬容、且人已服降、殺之不祥。」乃以屬吏。遂西入咸陽、欲止宮休舍、樊噲・張良諫、乃封秦重寶財物府庫、還軍霸上。蕭何盡收秦丞相府圖籍文書。十一月、召諸縣豪桀曰「父老苦秦苛法久矣、誹謗者族、耦語者棄市。吾與諸侯約、先入關者王之、吾當王關中。與父老約、法三章耳殺人者死、傷人及盜抵罪。餘悉除去秦法。吏民皆按堵如故。凡吾所以來、為父兄除害、非有所侵暴、毋恐。且吾所以軍霸上、待諸侯至而定要束耳。」乃使人與秦吏行至縣鄉邑告諭之。秦民大喜、爭持牛羊酒食獻享軍士。沛公讓不受、曰「倉粟多、不欲費民。」民又益喜、唯恐沛公不為秦王。 

 或說沛公曰「秦富十倍天下、地形彊。今聞章邯降項羽、羽號曰雍王、王關中。即來、沛公恐不得有此。可急使守函谷關、毋內諸侯軍、稍徵關中兵以自益、距之。」沛公然其計、從之。十二月、項羽果帥諸侯兵欲西入關、關門閉。聞沛公已定關中、羽大怒、使黥布等攻破函谷關、遂至戲下。沛公左司馬曹毋傷聞羽怒、欲攻沛公、使人言羽曰「沛公欲王關中、令子嬰相、珍寶盡有之。」欲以求封。亞父范增說羽曰「沛公居山東時、貪財好色、今聞其入關、珍物無所取、婦女無所幸、此其志不小。吾使人望其氣、皆為龍、成五色、此天子氣。急擊之、勿失。」於是饗士、旦日合戰。是時、羽兵四十萬、號百萬。沛公兵十萬、號二十萬、力不敵。會羽季父左尹項伯素善張良、夜馳見張良、具告其實、欲與俱去、毋特俱死。良曰「臣為韓王送沛公、不可不告、亡去不義。」乃與項伯俱見沛公。沛公與伯約為婚姻、曰「吾入關、秋豪無所敢取、籍吏民、封府庫、待將軍。所以守關者、備他盜也。日夜望將軍到、豈敢反邪。願伯明言不敢背德。」項伯許諾、即夜復去。戒沛公曰「旦日不可不早自來謝。」項伯還、具以沛公言告羽、因曰「沛公不先破關中兵、公巨能入乎。且人有大功、擊之不祥、不如因善之。」羽許諾。 

 沛公旦日從百餘騎見羽鴻門、謝曰「臣與將軍戮力攻秦、將軍戰河北、臣戰河南、不自意先入關、能破秦、與將軍復相見。今者有小人言、令將軍與臣有隙。」羽曰「此沛公左司馬曹毋傷言之、不然、籍何以至此。」羽因留沛公飲。范增數目羽擊沛公、羽不應。范增起、出謂項莊曰「君王為人不忍、汝入以劍舞、因擊沛公、殺之。不者、汝屬且為所虜。」莊入為壽。壽畢、曰「軍中無以為樂、請以劍舞。」因拔劍舞。項伯亦起舞、常以身翼蔽沛公。樊噲聞事急、直入、怒甚。羽壯之、賜以酒。噲因譙讓羽。有頃、沛公起如廁、招樊噲出、置車官屬、獨騎、與樊噲、靳彊、滕公、紀成歩、從間道走軍、使張良留謝羽。羽問「沛公安在。」曰「聞將軍有意督過之、脱身去、間至軍、故使臣獻璧。」羽受之。又獻玉斗范增。增怒、撞其斗、起曰「吾屬今為沛公虜矣」 

 沛公歸數日、羽引兵西屠咸陽、殺秦降王子嬰、燒秦宮室、所過無不殘滅。秦民大失望。羽使人還報懷王、懷王曰「如約。」羽怨懷王不肯令與沛公倶西入關、而北救趙、後天下約。乃曰「懷王者、吾家所立耳、非有功伐、何以得專主約。本定天下、諸將與籍也。」春正月、陽尊懷王為義帝、實不用其命。 

 二月、羽自立為西楚霸王、王梁・楚地九郡、都彭城。背約、更立沛公為漢王、王巴・蜀・漢中四十一縣、都南鄭。三分關中、立秦三將章邯為雍王、都廢丘。司馬欣為塞王、都櫟陽。董翳為翟王、都高奴。楚將瑕丘申陽為河南王、都洛陽。趙將司馬卬為殷王、都朝歌。當陽君英布為九江王、都六。懷王柱國共敖為臨江王、都江陵。番君呉芮為衡山王、都邾。故齊王建孫田安為濟北王。徙魏王豹為西魏王、都平陽。徙燕王韓廣為遼東王。燕將臧荼為燕王、都薊。徙齊王田市為膠東王。齊將田都為齊王、都臨菑。徙趙王歇為代王。趙相張耳為常山王。漢王怨羽之背約、欲攻之、丞相蕭何諫、乃止。 

 夏四月、諸侯罷戲下、各就國。羽使卒三萬人從漢王、楚子・諸侯人之慕從者數萬人、從杜南入蝕中。張良辭歸韓、漢王送至襃中、因説漢王燒絶棧道、以備諸侯盜兵、亦視項羽無東意。 

 漢王既至南鄭、諸將及士卒皆歌謳思東歸、多道亡還者。韓信為治粟都尉、亦亡去、蕭何追還之、因薦於漢王、曰「必欲爭天下、非信無可與計事者。」於是漢王齊戒設壇場、拜信為大將軍、問以計策。信對曰「項羽背約而王君王於南鄭、是遷也。吏卒皆山東之人、日夜企而望歸、及其鋒而用之、可以有大功。天下已定、民皆自寧、不可復用。不如決策東向。」因陳羽可圖三秦易并之計。漢王大説、遂聽信策、部署諸將。留蕭何收巴蜀租、給軍糧食。 

 五月、漢王引兵從故道出襲雍。雍王邯迎擊漢陳倉、雍兵敗、還走、戰好畤、又大敗、走廢丘。漢王遂定雍地。東如咸陽、引兵圍雍王廢丘、而遣諸將略地。田榮聞羽徙齊王市於膠東而立田都為齊王、大怒、以齊兵迎擊田都。都走降楚。六月、田榮殺田市、自立為齊王。時彭越在鉅野、眾萬餘人、無所屬。榮與越將軍印、因令反梁地。越擊殺濟北王安、榮遂并三齊之地。燕王韓廣亦不肯徙遼東。秋八月、臧荼殺韓廣、并其地。塞王欣、翟王翳皆降漢。 

 初、項梁立韓後公子成為韓王、張良為韓司徒。羽以良從漢王、韓王成又無功、故不遣就國、與倶至彭城、殺之。及聞漢王并關中、而齊、梁畔之、羽大怒、乃以故令鄭昌為韓王吳、距漢。令蕭公角擊彭越、越敗角兵。時張良徇韓地、遺羽書曰「漢欲得關中、如約即止、不敢復東。」羽以故無西意、而北擊齊。 

 九月、漢王遣將軍薛歐・王吸出武關、因王陵兵、從南陽迎太公、呂后於沛。羽聞之、發兵距之陽夏、不得前。

 

【訓読】

 元年冬十月、五星 東井(とうせい)に聚まる。沛公 霸上に至る。秦王の子嬰 素車白馬にして、係頸(けいけい)するに組を以ってし、皇帝の璽符節を封じ、枳道(しどう)の旁に降る。諸將 或は秦王を誅するを言い、沛公 曰く「始め懷王 我を遣し、固(もと)より能の寬容なるを以ってし、且つ人已に服降し、之を殺すは不祥なり。」乃ち以って吏に屬す。遂に西して咸陽に入り、宮に止まりて休舍せんと欲するに、樊噲・張良 諫め、乃ち秦の重寶財物を府庫に封じ、還りて霸上に軍す。蕭何 盡く秦の丞相府の圖籍文書を收む。十一月、諸縣の豪桀を召して曰く「父老 秦の苛法(かほう)に苦しむこと久しく、誹謗する者は族され、耦語(ぐうご)する者は棄市(きし)さる。吾れ諸侯と約すらく、先に關に入る者は之を王とせんと、吾れ當に關中に王たるべし。父老と約すらく、法は三章のみにして殺人する者は死、傷人及び盜は抵罪す。餘は悉く除き秦法より去るなり。吏民 皆按堵すること故の如くせん。凡そ吾の來たる所以は、父兄の為に害を除き、侵暴する所有るに非ず、恐れる毋かれ。且つ吾の霸上に軍する所以は、諸侯の至るを待ち而して要束を定めるのみ。」乃ち人をして秦吏と與に行きて縣鄉の邑に至り之を告諭せしむ。秦の民 大いに喜び、爭いて牛羊酒食を持し軍士に獻享(けんきょう)す。沛公 讓りて受けず、曰く「倉粟 多く、民を費やすを欲せず。」民 又た益〱喜び、唯だ沛公の秦王と為らざるを恐れるのみ。 

 或いは沛公に說きて曰く「秦の富は天下に十倍し、地形は彊し。今章邯の項羽に降り、羽 號して雍王と曰い、關中に王たらんとするを聞く。即ち來れば、沛公 恐らくは此に有るを得ず。急ぎ函谷關を守らしめ、諸侯の軍を內(い)れること毋く、稍(ようや)く關中の兵を徵し以って自ら益(ま)して、之を距まん。」沛公 其の計を然りとし、之に從う。十二月、項羽 果たして諸侯の兵を帥い西して關に入らんと欲するも、關門 閉(と)づ。沛公 已に關中を定むと聞き、羽 大いに怒り、黥布等をして函谷關を攻破せしめ、遂に戲下に至る。沛公の左司馬の曹毋傷 羽の怒るを聞き、沛公を攻めんと欲し、人をして羽に言わしめて曰く「沛公 關中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍寶 盡く之に有らんとす。」以って封を求めんと欲す。亞父の范增 羽に說きて曰く「沛公 山東に居する時、貪財好色にして、今 其の關に入るを聞くも、珍物 取る所無く、婦女 幸する所無く、此れ其の志 小さからず。吾れ人をして其の氣を望ましむるに、皆 龍を為し、五色を成し、此れ天子の氣なり。急ぎ之を擊ち、失うこと勿れ。」是に於いて士を饗し、旦日に合戰せんとす。是の時、羽の兵四十萬、號して百萬なり。沛公の兵十萬、號して二十萬、力敵せず。會〱羽の季父左尹の項伯 素より張良に善く、夜に馳せて張良に見え、具(つぶさ)に其の實を告げ、與に俱に去り、特(た)だ俱に死ぬこと毋からんと欲す。良 曰く「臣 韓王が為に沛公を送り、告げざるべからず、亡去するは不義なり。」乃ち項伯と俱に沛公に見ゆ。沛公 伯と約して婚姻を為し、曰く「吾れ關に入り、秋豪も敢えて取る所無く、吏民を籍し、府庫を封じ、將軍を待つ。所以に關を守る者、他の盜に備うるなり。日夜 將軍の到るを望み、豈に敢えて反せんや。伯の敢えて背德せざるを明言するを願わん。」項伯 許諾し、即ち夜に復た去る。沛公を戒しめて曰く「旦日 早く自ら來りて謝せざるべからず。」項伯 還り、具に沛公の言を以って羽に告げ、因りて曰く「沛公 先に關中の兵を破らざれば、公 巨(なん)ぞ能く入らん。且つ人に大功有り、之を擊つは不祥にして、因りて之を善とするに如かず。」羽 許諾す。 

 沛公、旦日、百餘騎を從えて羽に鴻門に見え、謝して曰わく、「臣將軍と力を戮わせて秦を攻むるや、將軍は河北に戰い、臣は河南に戰う。自ら意(おも)わざりき、先づ關に入り能く秦を破り、將軍と復た相見ゆ。今者、小人の言有り、將軍をして臣と隙有らしむ。」と。羽、曰わく、「此れ沛公の左司馬の曹毋傷、之を言う。然らずんば、籍、何を以てか此に至らん。」と。羽、因りて沛公を留めて飲む。范增、數(しばしば)羽に目して沛公を擊たしむるも、羽、應ぜず。范增、起ちて出でて項莊に謂いて曰わく、「君王、為人(ひととなり)忍びず。汝、入りて劍を以て舞い、因りて沛公を擊ち、之を殺せ。不者(しからずんば)、汝が屬、且に虜とする所と為らん」と。莊、入りて壽を為す。壽畢(お)わり曰わく、「軍中以て樂と為す無し。請う、劍を以て舞わん。」と。因りて劍を拔きて舞う。項伯、亦た起ちて舞い、常に身を以て沛公を翼蔽す。ただ樊噲、事の急なるを聞きて直ちに入り、怒ること甚し。羽、之を壯なりとし、賜うに酒を以てす。噲、因りて羽を譙讓す。頃(しばら)く有りて、沛公、起ちて廁に如き、樊噲を招きて出で、車・官屬を置き、獨り騎(の)りて樊噲・靳彊・滕公・紀成と歩み、間道從り軍に走り、張良をして留まりて羽に謝せしむ。羽、問う、「沛公、安くにか在る。」と。曰わく、「將軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して去り、間(ひそ)かに軍に至る。故に臣をして璧を獻ぜしむ。」羽、之を受く。又た、玉斗を范增に獻ず。增、怒り、其の斗を撞きて、起ちて曰わく、「吾が屬、今に沛公の虜と為らん。」と。 

 沛公歸りてより數日、羽、兵を引きて西して咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を燒き、過ぐる所殘滅せざるは無し。秦の民、大いに失望す。羽、人をして還りて懷王に報ぜしむるや、懷王曰わく、「約の如くせよ。」と。羽、懷王の沛公と倶に西のかた關に入らしむるを肯んぜずして、北のかた趙を救い、天下の約に後れしを怨む。乃ち曰わく、「懷王は、吾が家の立てし所なるのみにして、功伐有るに非ざれば、何を以てか專ら約を主(つかさど)るを得ん。本より天下を定めしは、諸將と籍となり。」と。春正月、懷王を尊ぶと陽(いつ)わりて義帝と為し、實は其の命を用いず。 

 二月、羽自立して西楚霸王と為り、梁・楚地九郡に王たり、彭城に都す。約に背き、更めて沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中四十一縣に王たり、南鄭に都せしむ。關中を三分し、秦三將を立てて章邯を雍王と為し、廢丘に都せしむ。司馬欣を塞王と為し、櫟陽に都せしむ。董翳を翟王と為し、高奴に都せしむ。楚將の瑕丘の申陽を河南王と為し、洛陽に都せしむ。趙將の司馬卬を殷王と為し、朝歌に都せしむ。當陽君の英布を九江王と為し、六に都せしむ。懷王の柱國共敖を臨江王と為し、江陵に都せしむ。番君呉芮を衡山王と為し、邾に都せしむ。故ての齊王の建の孫の田安を濟北王と為す。魏王豹を徙して西魏王と為し、平陽に都せしむ。燕王韓廣を徙して遼東王と為す。燕將の臧荼を燕王と為し、薊に都せしむ。齊王の田市を徙して膠東王と為す。齊將の田都を齊王と為し、臨菑に都せしむ。趙王歇を徙して代王と為す。趙相の張耳を常山王と為す。漢王は羽の背約を怨み、之を攻めんと欲するも、丞相蕭何諫め、乃ち止む。 

 夏四月、諸侯戲下を罷め、各就國(『史記』絳侯周勃世家)す。羽卒三萬人をして漢王に従わしめ、楚子・諸侯人の慕い從う者數萬人、杜南より蝕中に入る。張良辭して韓に歸し、漢王送りて襃中に至り、因りて漢王に棧道を焼絶し、以て諸侯の盗兵(『荀子』議兵)に備え、亦た項羽に東する意無きを視(しめ)せと説く。 

 漢王既に南鄭に至るも、諸將及び士卒は皆な謳を歌い東歸を思い、道に亡げて還る者多し。韓信治粟都尉と為るも、亦た亡げて去り、蕭何追いて之を還し、因りて漢王に薦め、曰く「必ず天下を争わんと欲すれば、信に非ずば與に事を計る可き者無し。」と。是に於て漢王は齊戒(さいかい)して壇場を設え、信を拜して大將軍と為し、計策を以て問う。信對えて曰く「項羽背約して君王を南鄭に王たらしめ、是遷なり。吏卒皆な山東の人にして、日夜企して望歸し、其の鋒に及びて之を用い、以て大功有るべし。天下已に定まり、民皆な自ずから寧まり、復た用うべからず。策を決して東向するに如かず。」と。因りて羽を陳べるに三秦易并之計を圖るべしと。漢王大いに説び、遂に信の策を聽(ゆる)し、諸將を部署す。蕭何を留め巴蜀の租を収め、軍に糧食を給せしむ。 

 五月、漢王、兵を引きて故道より出でて雍を襲う。雍王邯、漢を陳倉に迎え擊つも、雍兵敗れ、還り走る。好畤(こうし)に戰い、又た大いに敗れ、廢丘に走る。漢王、遂(かく)て雍の地を定む。東のかた咸陽に如(ゆ)き、兵を引きて雍王を廢丘に圍み、諸將を遣わして略地せしむ。田榮、羽の齊王市を膠東に徙して田都を立てて齊王と為すを聞き、大いに怒り、齊兵を以て田都を迎え擊つ。都、走りて楚に降る。六月、田榮、田市を殺し、自ら立ちて齊王と為る。時に彭越、鉅野に在り、眾萬餘人、屬する所無し。榮、越に將軍印を與え、因りて梁の地に反せしむ。越、濟北王安を擊ちて殺し、榮、遂に三齊の地を并す。燕王韓廣も亦た遼東に徙さるるを肯んぜず。秋八月、臧荼、韓廣を殺し、其の地を并す。塞王欣、翟王翳、皆な漢に降る。 

 初め、項梁、韓の後の公子成を立てて韓王と為し、張良、韓の司徒と為る。羽、良の漢王に從い、韓王成の又た功無きを以て、故に國に就かしめず、與に倶に彭城に至り、之を殺す。漢王の關中を并せ、齊・梁の之に畔するを聞くに及びて、羽、大いに怒り、乃ち故(もと)の呉令の鄭昌を以て韓王と為し、漢を距がしむ。蕭公角をして彭越を擊たしむるや、越、角の兵を敗る。時に張良、韓の地を徇(とな)え、羽に書を遣(おく)りて曰わく、「漢、關中を得んと欲すれども、約の如くなれば即ち止め、敢えて復た東せざらん。」と。羽、故を以て西する意無く、北のかた齊を擊つ。 

 九月、漢王、將軍薛歐・王吸を遣わして武關を出で、王陵の兵に因りて、南陽より太公・呂后を沛に迎えしむ。羽、之を聞き、兵を發して之を陽夏に距(ふせ)がしむれば、前(すす)むを得ず。

 

【訳文】

 元年の冬十月、五星が東井の位置に集まった。沛公は霸上に至った。秦王の子嬰は装飾のない車を白馬に曳かせ、綬を首にかけて、皇帝の印と割符を封印して、枳道亭の傍らにて降伏した。諸将の中には秦王を誅殺しようと言う者もいたが、沛公は言った「最初に懷王が私を派遣したのは、元来私の才が寛容であるというからであり、さらに人がすでに降伏しており、これを殺害するのはめでたい事ではない。」と。そこで、(秦王の処遇を)下吏に委ねた。かくして沛公は西行して咸陽に入り、宮廷に入り休息しようと欲したが、樊噲・張良が諫めて、秦の大切な宝や財物を府庫に封じ、戻って霸上に駐屯した。蕭何は丞相府にある地図や帳簿、文書を手に入れた。十一月、諸県の豪桀を召し出して言った「父老達は長きにわたり秦の厳しい法律に苦しみ、謗る者は一族を皆殺しにされ、禁じられた言葉で話した者は市場で処刑された。私は諸侯達と約束した、先に関中へ入る者は王にしようと、私は(今まさに)関中の王であろうとしている。父老と約束しよう、法律はたったの三章だけで殺人した者は死に、傷害と窃盗はその罪に応じて罰する。その他の法律は廃止して秦の法律を捨て去ろう。官民を以前の様に安住させよう。総じて私がここに来た理由は、父兄のために害を除くためで、侵略強奪するためではないので、恐れることはない。さらに霸上に駐屯する理由は、諸侯が到着するのを待って約束事を定めるためだけである」と。そして人に秦の役人と一緒に縣鄉の邑に行かせて先の内容を広く一般民に告げ諭させた。秦の民は大変喜んで、互いに競って牛羊の肉や酒食事を持参して(沛公の)軍士に差し上げようとした。沛公は謙譲して受け取らず、言った「くらの中の食糧が多くて、(また)民力を使い減らしたくないのだ。」と。民はいよいよ喜んで、ただただ沛公が秦王とならない事を心配するだけだった。 

 ある者が沛公に説いて言った「秦の富は天下に十倍し、地形は堅固です。今、章邯が項羽に降伏し、表向きに(章邯を)雍王と言い、(項羽自身は)關中の王であろうとしているのを聞きます。つまり關中へ項羽が来れば、おそらく沛公は關中にいられないでしょう。急ぎ(兵に)函谷關を守らせて、諸侯の軍を關中へ入れることなく、徐々に關中の兵を徴発して軍勢を増やし、項羽を寄せ付けないようにするのです。」と。沛公はその計略を尤もだとして、(進言に)従った。十二月、やはり項羽は諸侯の兵を率いて西行して關中に入ろうとしたが、関所の門は閉じていた。沛公がすでに關中を平定したと聞き及んで、項羽は激怒し、黥布等に函谷關を攻め破らせて、そのまま戲下に至った。沛公の左司馬の曹毋傷は、項羽が激怒したのを聞き、沛公を攻撃しようと欲し、人を派遣して項羽に伝えさせて言った「沛公は關中に王であろうと欲し、子嬰を宰相たらしめて、珍宝は全て(沛公のもと)にあるようにしております。」と。これを伝えることによって(曹毋傷は)項羽に自分へ領地を与えて貰おうと欲したのだ。亞父の范增は項羽に説いて言った「沛公は山東に居住していた時、お金に貪欲で女に目がなかったのですが、今關中に入ったと聞きましたが、珍宝を取ることもなく、婦女もかわいがることがなく、その志は小さくはないでしょう。私は人をやって、沛公の気を遠くから見させてみたところ、気は全て龍となり、五色を成し、これは天子の気であります。急ぎ沛公を攻撃し、(機会を)失ってはいけません。」と。そこで、兵士に酒や食事を振舞って宴をし、翌朝に合戦を行おうとした。この時、項羽の兵は四十万、号して百万であった。沛公の兵は十万、号して二十万であった。(そのため)力では相手にならなかった。おりしも、項羽の叔父で左尹の項伯は昔から張良と仲が良く、夜に馬を走らせ張良と会い、詳細に(明日の合戦に関する)情報を話して聞かせ、一緒に(ここから)離れて、むなしく両者(項伯・張良)ともに死ぬことだけはない様にしようとした。張良は言った「私は韓王のために沛公を送るのであり、(教えてもらったことを)告げない訳にはいかず、(自分が)逃亡するのは不義にあたる。」と。そこで、張良は項伯と共に沛公にまみえた。沛公は項伯と婚姻を約束して言った「私は關中へ入り、些かも自分から(財物や婦女に)手を出そうとせず、官民を帳簿に記して管理し、くらを封印して、将軍(項羽)を待っていました。なので、函谷關を守備する者は、その他の盗賊に備えるため置いたのです。私は日夜將軍がここに到着するのを待ちわびており、どうして進んで反抗するでしょうか。私は項伯様より(沛公が)道義に反していないと将軍(項羽)に明言してくださることを願っております。」と。項伯は許諾して、夜の内に再び去った。(その時に)沛公に戒めとして言った「翌朝に先立って自分から将軍(項羽)の元へ来てお詫びしないことのないように」と。項伯は自陣へ帰り、沛公の言葉を詳細に項羽へ話して聞かせ、そこで言った「沛公が先に關中の兵を破らなければ、どうしてあなたは關中へ入ることができたでしょうか。その上、人に大功があり、それを攻撃することはめでたい事ではなく、よって沛公を大切にするのがよろしいでしょう。」と。項羽はその進言を許諾した。 

 沛公は翌日、百騎あまりを従えて鴻門にて項羽と会見し、謝って言うには、「私は項将軍とともに力を合わせて秦を攻めましたが、項将軍は河北で戦い、私は河南で戦いました。思いもよりませんでした。私が先に関中に入り、秦を破って、また項将軍と会うことになりましょうとは。今、小人が讒言によって項将軍と私の仲を裂こうとしているのです」と。項羽が言うには、「これは沛公の左司馬の曹毋傷が讒言したのだ。そうでなければ、どうして私がここに来たりなどしようか」と。そこで項羽は沛公を留めて宴会を開いた。(席上で)范増はしばしば項羽に目配せして沛公を殺させようとしたが、項羽は応じなかった。范増は席を立って外に出て項荘に言った。「項王は同情心のあるお人柄であるから、お前が中に入って剣舞をなし、それで沛公を刺して殺せ。さもなければ、お前たちはみな沛公に捕らわれてしまうだろう」と。項荘は中に入って寿をなした。寿が終わって項荘が言うには、「軍中には楽しみもございますまい。是非とも剣舞をお見せいたしましょう」と。そうして項荘は剣を抜いて舞を始めた。項伯もまた立って剣舞を行い、常に身を以て沛公をおおいかばった。樊噲は事が急を要するものであることを聞いて直ちに中に入り、非常に怒った様子であった。項羽は、樊噲が立派で勇敢であると感心し、樊噲に酒を与えた。そこで樊噲は項羽を責め立てた。しばらくして、沛公は席を立って厠に行き、樊噲を詠んで脱出し、車や属吏を捨てて自分だけ馬に乗り、樊噲・靳彊・滕公・紀成とともに行き、間道より軍営に逃げ帰り、張良を鴻門に留めて項羽に謝罪させた。項羽が張良に問うには、「沛公はどこにいるのか」と。張良が言うには、「沛公は、将軍に沛公をとがめ立てする意思があるのを察して、脱出してここを去り、こっそりと自分の軍営に帰りました。故に、私に項王に璧を献ずるようにお命じになりました」と。項羽は璧を受け取った。また、玉斗を范増に贈ったが、范増は怒り、剣で玉斗をたたき斬って立ち上がり言った。「我らはみな沛公の捕虜となるだろう」と。 

 沛公が帰ってから数日後、項羽は兵を率いて西進して咸陽を破壊して殺戮を行い、すでに降伏した秦王の子嬰を殺し、秦の宮殿を焼き、項羽が通り過ぎるところはすべて殺し滅ぼし尽くされた。秦の民は大いに望みを失った。項羽が使いを送って帰って懷王に報告させると、懷王が言うには、「約の通りにせよ」と。項羽は、懷王が自分に沛公とともに西進して関に入らせるのを承諾せず、北にて趙を救ったがために天下の約に遅れてしまったことを怨んだ。そこで項羽は言った。「懷王は我が家の者(=項梁)によって立てられただけであって、功績があるわけでもないのに、どうして約をもっぱらつかさどることができようか。もともと天下を定めたのは諸将とこの私だ」と。春正月、懷王を尊ぶふりをして義帝として奉じたが、実際はその命に従うことはなかった。 

 二月、羽は自立して西楚霸王と為り、梁・楚地九郡に王となり、彭城に都した。約に背き、あらためて沛公を立てて漢王とし、巴・蜀・漢中四十一縣の王として、南鄭を都とした。關中を三分し、秦三將を立てて章邯を雍王として、廢丘を都とした。司馬欣を塞王とし、櫟陽を都とした。董翳を翟王とし、高奴を都とした。楚將の瑕丘出身の申陽を河南王とし、洛陽を都とした。趙將の司馬卬を殷王として、朝歌を都とした。當陽君の英布を九江王として、六を都とした。懷王の柱國であった共敖を臨江王として、江陵を都とした。番君呉芮を衡山王として、邾を都とした。かつての齊王の建の孫の田安を濟北王と為し。魏王豹を西魏王として、平陽に都した。燕王韓廣を徙して遼東王と為す。燕將の臧荼を燕王として、薊を都とした。齊王の田市を強制移住させて膠東王と為し。齊將の田都を齊王とし、臨菑を都とした。趙王歇を強制移住させて代王とし。趙相の張耳を常山王とし。漢王は項羽が約に背いたことを怨み、これを攻めようとしたが、丞相蕭何が諫めたので諦めた。 

 夏四月、諸侯は項羽の麾下から外れて、おのおの就國した。項羽は三万人の兵卒を漢王に従わせたが、楚の人や諸侯国の人がこれを慕って付いてくる者が数万人いて、杜南から蝕中に入った。張良が辞めて韓に帰ろうとし、漢王が襃中まで送ったが、漢王に「棧道を焼絶して、それによって諸侯の盗賊となった兵に備え、また項羽に対して漢王が東に帰りたいという意志を持ってないことを示せ」と説いた。 

 漢王はすでに南鄭にいたったが、諸將や士卒は皆な斉の歌を歌って東に帰りたいと思い、道中に逃げ出すものが多かった。韓信は治粟都尉となったが、また彼も逃げだそうとし、蕭何は追って帰ってきて貰い、よって漢王に薦めて、曰く「必ず天下を争おうと思うのであれば、韓信でなければこれを共に計るべき人間はいない。」これによって漢王は齊戒して壇場を設えて、信を拝して大將軍とし、はかりごとについて聞いた。信は対えていった「項羽は背約し、我が君を南鄭の王としたが、これは流罪である。吏卒は皆秦嶺山脈より東の人なので、日夜企しては帰ることを望んでおり、その望みの矛先を利用するならば、大功を挙げることができるだろう。一方天下は已に定まって、民は皆自分の故郷に落ち着いてしまっていて、彼等をまた兵として用いることは難しい。策を決して東に向かうほかはない。」よって項羽について陳べるに三秦を簡単に併呑できる計略を練るべきであると。漢王は大いに喜んで、遂に韓信の策を聞くようになり、諸將を適当な部署に配置した。蕭何を留めて巴蜀の租税を収めて、軍に糧食を補給させた。 

 五月、漢王は兵を率いて故道県から出撃して雍国を襲った。雍王の章邯は、陳倉で漢軍を迎え撃ったが、雍国の兵は敗れ、逃げ帰った。章邯は好畤県で漢軍と戦ったがまた大敗して廃丘に逃げた。漢王はそのまま雍国の地を平定し、東の咸陽に進み、兵を率いて雍王の章邯を廃丘で包囲し、諸将を派遣して雍国の土地を占拠させた。田栄は、項羽が斉王の田市を膠東王に左遷して田都を斉王としたのを聞いて激怒し、斉の兵を率いて田都を迎え撃った。田都は逃げて楚に降った。六月、田栄は田市を殺し、自ら斉王となった。時に、彭越は鉅野澤にいて、一万余りの民衆を率いていたが、どこにも属していなかった。田栄は彭越に将軍の印を与えて梁の地で反乱を起こさせた。彭越は済北王の田安を攻め殺し、田栄は斉・済北・膠東の三斉の地を併呑した。燕王の韓広もまた、遼東に左遷されることを承認しなかった。秋八月、(項羽に封じられた燕王の)臧荼は韓広を殺し、その地を併合した。塞王の司馬欣、翟王の董翳は二人とも漢に降伏した。 

 当初、項梁は(戦国時代の)韓王の後裔である公子の韓成を立てて韓王となし、張良は韓の司徒となった。項羽は、張良が漢王の劉邦に従っていて、韓王成もまた功を立てていないので、韓王成を領国に赴かせず、一緒に自国の都である彭城に行き、韓王成を殺した。漢王の劉邦が関中を併合し、斉と梁の地が項羽に反したのを聞いて、項羽はひどく怒り、そこでかつての呉令の鄭昌を韓王にして漢を防がせた。そして、蕭令の角に彭越を攻撃させたが、彭越は角の兵を破った。時に張良は韓の地を占領し、項羽に書を送って言った。「漢は関中を得ようとしていますが、約の通りに(関中の王に)なれば途端に進撃を止め、自らすすんで東に兵を向けることはしないでしょう」と。それによって項羽は西に兵を向けようとはせず、北の斉を攻撃した。 

 九月、漢王は将軍の薛歐と王吸を派遣して武関から東へ出て、王陵の兵を頼って、南陽から沛にいる太公・呂后を迎えさせようとした。項羽はこのことを聞いて、兵を派遣して薛歐らを陽夏で防がせたので、薛歐らは進むことができなかった。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,2,26(発表者 すぐろ) 

2017,3,5(発表者 董卓(護倭中郎将))

2017,3,12(発表者 大蔵春) 

2017,3,19(発表者 董卓(護倭中郎将))