七年

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【原文】

 七年冬十月、上自將擊韓王信於銅鞮、斬其將。信亡走匈奴、其將曼丘臣・王黃共立故趙後趙利為王、收信散兵、與匈奴共距漢。上從晉陽連戰、乘勝逐北、至樓煩、會大寒、士卒墮指者什二三。遂至平城、為匈奴所圍、七日、用陳平祕計得出。使樊噲留定代地。 

 十二月、上還過趙、不禮趙王。是月、匈奴攻代、代王喜棄國、自歸雒陽、赦為合陽侯。辛卯、立子如意為代王。 

 春、令郎中有罪耐以上、請之。民産子、復勿事二歳。 

 二月、至長安。蕭何治未央宮、立東闕・北闕・前殿・武庫・大倉。上見其壯麗、甚怒、謂何曰「天下匈匈、勞苦數歳、成敗未可知、是何治宮室過度也」何曰「天下方未定故可因以就宮室。且夫天子以四海為家、非壯麗亡以重威、且亡令後世有以加也。」上説。自櫟陽徙都長安。置宗正官以序九族。夏四月、行如雒陽。

 

【訓読】

 七年冬十月、上 自ら將いて韓王信を銅鞮(どうてい)に擊ち、其の將を斬る。信 匈奴に亡走し、其の將曼丘臣・王黃 共に故の趙の後(こう)趙利を立て王と為し、信の散兵を收め、匈奴と共に漢を距む。上 晉陽從り連戰し、勝に乘じて北(に)ぐるを逐い、樓煩(ろうはん)に至るに、大寒に會い、士卒の指を墮とす者什に二三なり。遂(かく)て平城に至り、匈奴の圍む所と為り、七日にして、陳平の祕計を用い出づるを得。樊噲をして留め代の地を定めしむ。 

 十二月、上 還りて趙を過(よ)ぎるに、趙王に禮せず。是の月、匈奴 代を攻め、代王喜 國を棄て、自ら雒陽に歸し、赦して合陽侯と為す。辛卯(しんぼう)、子の如意を立てて代王と為す。 

 春、郎中をして罪の耐以上ある有らば、之を請わしむ。民の子を産みしは、復た事(つか)う勿からしむること二歳。 

 二月、長安に至る。蕭何 未中宮を治め、東闕・北闕・前殿・武庫・大倉を立つ。上 其の壯麗なるを見、甚だ怒り、何に謂いて曰く「天下匈匈として、勞苦すること數歳、成敗未だ知るべからざるに、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや」と。何 曰く「天下方に未だ定まらざるの故に因りて以て宮室を就(な)すべし。且つ夫れ天子は四海を以て家と為せば、壯麗に非ずんば以て威を重くする亡く、且つ後世をして以て加うる有らしむる亡きなり」と。上 説(よろこ)ぶ。櫟陽より徙(うつ)りて長安に都す。宗正の官を置きて以て九族を序せしむ。夏四月、行きて雒陽に如く。

 

【訳文】

 七年冬十月、高祖はみずから軍をひきいて銅鞮で韓王信を攻撃し、その将を斬った。信は匈奴に逃走し、信の将である曼丘臣・王黃は共にもと趙の後裔である趙利を王に擁立し、離散した韓王信の兵卒を収容して、匈奴と共に漢を防いだ。高祖は晉陽から連戦して、勝ちに乗じて追撃し、樓煩に至ったところで、厳しい寒気にあい、士卒の中で凍傷により指を失う者は二割から三割にものぼった。そして平城に到達したところで、匈奴に包囲され、(包囲されて)七日目にして、陳平の祕計によって脱出することができた。(そして)樊噲を留めて代の地を平定させた。 

 十二月、高祖は帰還して趙を過訪し、趙王に禮を行わなかった。この月、匈奴が代を攻撃し、代王の喜は国を棄て、みずから洛陽に帰り、(高祖は)これを赦して合陽侯とした。辛卯、子の如意を王に立て代王とした。 

 春、郎中に命じて耐(ほおひげを剃る刑罰)以上の罪が有れば、朝廷に先に裁断を請わせた。子を産んだ民は、さらに二歳の間、徭役を免除することとした。 

 二月、高祖は長安に到着した。蕭何 未央宮を修理し、東闕・北闕・前殿・武庫・大倉を建てた。高祖はそれらが壮麗であるのを見て、甚だ怒って、蕭何に言った。「天下は乱れ騒ぎ、ここ数年の間ずっと労苦を重ねて、まだ創業の成否も分からないというのに、どうして宮室を修理するのにこんなにも度を越したものとなっているのか」と。蕭何は言った。「天下は今もまだ定まらないからこそ、こうして宮室を建てているのです。もし天子が四海を家と為すのであれば、壮麗でなければ皇威を重くすることはできず、それに後世の者たちがこれ以上に壮麗さを加えることができないようにさせられます」と。高祖は喜んだ。櫟陽より徙ってついに長安に都を定めた。宗正の官を置いて高祖の九族の序列を立てさせた。夏四月、高祖は出かけて雒陽に赴いた。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,8,6(発表者 すぐろ) 

2017,8,27(発表者 董卓(護倭中郎将))