六年

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【原文】

 六年冬十月、令天下縣邑城。 

 人告楚王信謀反、上問左右、左右爭欲擊之。用陳平計、乃偽游雲夢。十二月、會諸侯于陳、楚王信迎謁、因執之。詔曰「天下既安、豪桀有功者封侯、新立、未能盡圖其功。身居軍九年、或未習法令、或以其故犯法、大者死刑、吾甚憐之。其赦天下。」田肯賀上曰「甚善、陛下得韓信、又治秦中。秦、形勝之國也、帶河阻山、縣隔千里、持戟百萬、秦得百二焉。地勢便利、其以下兵於諸侯、譬猶居高屋之上建瓴水也。夫齊、東有琅邪・即墨之饒、南有泰山之固、西有濁河之限、北有勃海之利、地方二千里、持戟百萬、縣隔千里之外、齊得十二焉。此東西秦也。非親子弟、莫可使王齊者。」上曰「善。」賜金五百斤。上還至雒陽、赦韓信、封為淮陰侯。 

 甲申、始剖符封功臣曹參等為通侯。詔曰「齊、古之建國也、今為郡縣、其復以為諸侯。將軍劉賈數有大功、及擇寬惠脩絜者、王齊・荊地。」 

 春正月丙午、韓王信等奏請、以故東陽郡・鄣郡・吳郡五十三縣立劉賈為荊王、以碭郡・薛郡・郯郡三十六縣立弟文信君交為楚王。壬子、以雲中・鴈門・代郡五十三縣立兄宜信侯喜為代王、以膠東・膠西・臨淄・濟北・博陽・城陽郡七十三縣立子肥為齊王、以太原郡三十一縣為韓國、徙韓王信都晉陽。上已封大功臣①三十餘人、其餘爭功、未得行封。上居南宮、從復道上見諸將往往耦語、以問張良。良曰「陛下與此屬共取天下、今已為天子、而所封皆故人・所愛、所誅皆平生仇怨。今軍吏計功、以天下為不足用遍封、而恐以過失及誅、故相聚謀反耳。」上曰「為之奈何」良曰「取上素所不快、計群臣所共知最甚者一人、先封以示群臣。」三月、上置酒、封雍齒、因趣丞相急定功行封。罷酒、群臣皆喜、曰「雍齒且侯、吾屬亡患矣。」 

 上歸櫟陽、五日一朝太公。太公家令說太公曰「天亡二日、土亡二王。皇帝雖子、人主也。太公雖父、人臣也。奈何令人主拜人臣。如此、則威重不行。」後上朝、太公擁彗、迎門卻行。上大驚、下扶太公。太公曰「帝、人主、奈何以我亂天下法。」於是上心善家令言、賜黃金五百斤。夏五月丙午、詔曰「人之至親、莫親於父子、故父有天下傳歸於子、子有天下尊歸於父、此人道之極也。前日天下大亂、兵革並起、萬民苦殃、朕親被堅執銳、自帥士卒、犯危難、平暴亂、立諸侯、偃兵息民、天下大安、此皆太公之教訓也。諸王・通侯・將軍・羣卿・大夫已尊朕為皇帝、而太公未有號。今上尊太公曰太上皇。」 

 秋九月、匈奴圍韓王信於馬邑、信降匈奴。

 

【訓読】

 六年冬十月、天下の縣邑をして城かしむ。 

 人 楚王信の謀反を告げ、上 左右に問うに、左右 爭いて之を擊たんと欲す。陳平の計を用い、乃ち偽りて雲夢(うんぼう)に游ぶ。十二月、諸侯を陳に會(あつ)め、楚王信 迎謁し、因りて之を執(とら)ふ。詔して曰く「天下既に安く、豪桀の有功の者 侯に封ぜられ、新しく立ちて、未だ盡くは其の功を圖ること能はず。身 軍に居くこと九年、或は未だ法令を習わず、或は其の故を以って法を犯し、大なる者は死刑、吾 甚だ之を憐れむ。其れ天下に赦せ。」と。田肯(でんこう) 上を賀(いわ)いて曰く「甚だ善し、陛下 韓信を得、又た秦中を治む。秦、形勝の國たれば、河を帶び山に阻(よ)り、縣隔すること千里、持戟百萬、秦 百の二を得。地勢 便利なれば、其の以って兵を諸侯に下すは、譬れば猶ほ高屋の上に居りて瓴水を建(くつがえ)すがごときなり。夫れ齊、東に琅邪・即墨の饒(じょう)有り、南に泰山の固有り、西に濁河の限有り、北に勃海の利有り、地方二千里、持戟百萬、縣隔すること千里の外にして、齊 十の二を得。此れ東西の秦なり。親しき子弟に非ずんば、齊に王たらしむべき者莫し。」と。上 曰く「善し。」と。金五百斤を賜う。上 還りて雒陽に至り、韓信を赦し、封じて淮陰侯と為す。 

 甲申、始めて符を剖(さ)き功臣の曹參等を封じて通侯と為す。詔して曰く「齊、古の建國なれど、今 郡縣たり、其れ復し以って諸侯と為さん。將軍の劉賈 數〱(しばしば)大功有り、及び寬惠(かんけい)脩絜(しゅうけつ)なる者を擇びて、齊・荊の地に王せん。」と。 

 春正月丙午、韓王信等 奏して請うらく、故の東陽郡・鄣(しょう)郡・吳郡の五十三縣を以て劉賈を立てて荊王と為し、碭(とう)郡・薛郡・郯(たん)郡の三十六縣を以て弟の文信君交を立てて楚王と為さんと。壬子、雲中・鴈門・代郡の五十三縣を以て兄の宜信侯喜を立てて代王と為し、膠(こう)東・膠西・臨淄(りんし)・濟北・博陽・城陽郡の七十三縣を以て子の肥を立てて齊王と為し、太原郡の三十一縣を以て韓國と為し、韓王信を徙(うつ)して晉陽に都せしむ。上 已に大功の臣三十餘人を封ずれども、其の餘 功を爭いたれば、未だ封を行うを得ず。上 南宮に居り、復道(ふくどう)の上より諸將を見るや往往にして耦語(ぐうご)したれば、以て張良に問う。良 曰く「陛下 此の屬と共に天下を取り、今已に天子と為るも、而(しか)れども封ずる所は皆な故人の愛する所にして、誅する所は皆な平生の仇怨なり。今、軍吏 功を計るに、天下を以て用(もっ)て遍(あまね)く封ずるに足らずと為し、而(しこう)して過失を以て誅せらるるに及ばんことを恐れ、故に相い聚(あつま)まりて謀反するのみ」と。上 曰く「之が為に奈何せん」と。良 曰く「上の素より快からざる所を取りて、群臣の共に最も甚だしと知る所の者一人を計りて、先ず封じて以て群臣に示せ」と。三月、上 酒を置き、雍齒を封じて、因りて丞相を趣(うなが)して急ぎ功を定め封を行わしむ。酒罷(や)みて、群臣 皆な喜び、曰く「雍齒すら且(か)つ侯たり、吾が屬 患い亡し」と。 

 上 櫟陽(れきよう)に歸し、五日の一たび太公に朝す。太公の家令 太公に說きて曰く「天に二日亡く、土に二王亡し。皇帝 子と雖も、人主なり。太公 父と雖も、人臣なり。奈何(いかん)ぞ人主をして人臣に拜せしめんや。此くの如くなれば、則ち威重 行われず。」と。後に上の朝するや、太公 擁彗(ようすい)し、門に迎えて卻行(きゃくこう)す。上 大いに驚き、下りて太公を扶(たす)く。太公 曰く「帝、人主たり、奈何ぞ我を以って天下の法を亂さん。」と。是に於いて上 心に家令の言を善しとし、黃金五百斤を賜う。夏五月丙午(へいご)、詔して曰く「人の至親、父子より親(ちか)きは莫く、故に父 天下を有すれば傳えて子に歸し、子 天下を有すれば尊びて父に歸するは、此れ人道の極なり。前日(むかし)天下 大いに亂れ、兵革 並びに起こり、萬民 殃(わざわい)に苦しみ、朕 親ら堅を被り銳を執り、自ら士卒を帥い、危難を犯し、暴亂を平らげ、諸侯を立て、兵を偃(やす)め民を息(やす)め、天下 大いに安んずるは、此れ皆太公の教訓なり。諸王・通侯・將軍・羣卿・大夫 已に朕を尊びて皇帝と為し、而れども太公に未だ號有らず。今 太公を上尊して太上皇と曰わん。」と。 

 秋九月、匈奴 韓王信を馬邑に圍み、信 匈奴に降る。

 

【訳文】

 六年冬十月、天下の県や邑に城壁を築かせた。 

 ある人が楚王信が謀反をおこそうとしていると告げ、高祖は左右の者に問うと、左右争ってこれを討伐しようとした。(そこで)陳平の計略を用い、(目的を偽り)雲夢の薮沢へ出游した。十二月、諸侯を陳へ集め、楚王信は出迎えてお目にかったが、(高祖はそこで)彼を捕縛した。(また)詔を出して言った「天下は既に安定しており、豪桀で功績のある者は侯に封じられ、(私は)新しく皇帝に即位したばかりで、いまだ全ては功を斟酌することができていない。この身を軍中におくこと九年、ある者はいまだに法令を学べず、またある者はその故に法を犯してしまい、(罪が)大きい者は死刑になってしまった、私はとてもこれを憐れむものである。(よって)天下に赦令を発するように。」と。田肯が高祖にお祝いを申し上げて言った「(これは)とても善いことでございます。陛下は韓信を得て、さらに関中を都といたしました。秦は地理的に恵まれ、地形が堅固な土地で、黄河がめぐり堅固な山々によって、遠く千里隔絶し、兵士は百万、それ故に秦の地の二万は兵百万に匹敵します。地形も利便性があり、それを活かして兵を諸侯に出すのは、例えれば(その易きこと)高い建物に居て瓴中の水を傾けて流すようなものです。さて、齊は東に琅邪・即墨の肥沃な土地があり、南に泰山の堅固な山があり、西に濁河の境界があり、北に勃海の利益があり、土地は二千里四方、兵士百万、千里の外に隔絶し、齊の地の二十万は兵士百万に匹敵します。これが東西の秦でございます。陛下の子や弟でなければ、齊の王につかせるべき人物はおりません。」と。高祖は言った「善し。」と。(そこで田肯に)金五百斤を賜与した。高祖は洛陽に帰還して、韓信を赦免し、淮陰侯に封じた。 

 甲申、割符を割き、やっと功臣の曹參等を通侯に封じた。(そして)詔を出して言った「齊は昔の国であったが、今では郡県となっており、これを復活させて諸侯国としたい。將軍の劉賈はよく大功をたてており、彼とともに(その他)寛大で仁愛かつ清廉潔白な者を選んで、齊・荊の地に王としよう。」と。 

 春正月丙午、韓王信らが上奏して請うた。故の東陽郡・鄣郡・吳郡の五十三県を劉賈に与えて荊王とし、碭郡・薛郡・郯郡の三十六県を(高祖の)弟の文信君の劉交に与えて楚王としましょう、と。壬子、雲中・鴈門・代郡の五十三県を(高祖の)兄の宜信侯の劉喜に与えて代王とし、膠東・膠西・臨淄・濟北・博陽・城陽郡の七十三県を(高祖の)子の劉肥に与えて斉王とし、太原郡の三十一県を韓国として、韓王信を徙して晋陽を都とさせた。高祖は已に大功のある臣三十人あまりを封じたが、その他の諸将は功を争っていたので、まだ封を行うことができなかった。高祖は南宮にいて、復道(渡り廊下)の上から諸将を見ると、諸将たちはいつも面と向かってひそひそと囁きあっていたので、それで高祖は張良に(あれは何をひそひそと語りあっているのかと)問うた。張良は言った。「(あれは陛下に反しようと語り合っているのです。)陛下はこの者たちと共に天下を取り、今やもう天子となられましたが、しかし封ぜられた者はみな陛下の旧友(蕭何や曹参ら)のお気に入りの者たちであり、誅せられた者ははみな陛下が日ごろから怨みを持つ者たちでございました。今、軍吏が諸将の功を計っていますが、(功績のある者が多く、諸将を)あまねく封ずるには天下の土地は足りないと思っており(そのため群臣たちは、陛下が全員を封じることができず、自分が封ぜられなくなることを恐れ)、また、過失によって誅殺されることを恐れ、故に集まって謀反を行うのです」と。高祖は言った。「諸将のためにどうしたらよいか」と。張良は言った。「陛下が常々嫌っている者たちを選び、そして陛下が最も甚だしく嫌っていると群臣たちがみな分かっている者一人の功績を計り、真っ先に封じてそれによって群臣たちに(意図を)示しなされ」と。三月、高祖は酒宴を開き、雍齒を封じて、よって丞相を促して急ぎ功を定めて封を行わせた。酒宴が終わると、群臣はみな喜んで言った。「あの雍齒ですら侯となったのだ。我らも憂慮することはない」と。 

 高祖は櫟陽に帰還し、五日に一度は父である太公にお目見えしていた。太公の家令は太公に(自分の意見を)説いて言った「天に二日亡く、土に二王亡し、でございます。皇帝陛下は子であるとはいえ、君主であります。太公は(高祖の)親であるとはいえ、臣下でございます。どうして君主に臣下を拝させることができましょうか。この様であるなら、皇帝陛下の威厳は行き渡りません。」と。後に高祖がお目見えすると、太公は箒で掃き清め、門まで出迎えて(恭しく)後退りした。高祖は大いに驚き、下りて太公を扶け起こした。太公は言った「皇帝陛下は君主であります、どうして私によって天下国家の法を乱すことができるでしょうか。」と。そこで高祖は心に家令の発言を善しとして、(家令に)黃金五百斤を賜与した。夏五月丙午、高祖は詔して言った「人の至親で父親以上に親しいものはなく、故に父親が天下をとれば、(それを)子供に継承し、子供が天下をとれば尊敬の念を親にやる、これは人道の極致である。以前に天下は大いに乱れ、全国各地で戦争が起き、天下万民はこの禍に苦しみ、朕はみずから甲冑を身にまとい武器を手にとり、自分の手で士卒をひきいて、命を危険にさらして、暴乱を平定し、諸侯を立てて、兵民を休息させ、天下は大いに落着いた、これは全て父である太公の教訓のお陰である。諸王・通侯・將軍・羣卿・大夫は既に朕を尊び皇帝としているが、太公には未だ尊号がなく、今 太公を敬い仰いで太上皇ということにする。」と。 

 秋九月、匈奴が韓王信を馬邑に包囲攻撃し、韓王信は匈奴に降伏した。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,7,2(発表者 董卓(護倭中郎将)) 

2017,7,16(発表者 すぐろ) 

2017,7,23(発表者 董卓(護倭中郎将))

2017,8,6(発表者 すぐろ)