三年

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【原文】

 三年冬十月、韓信・張耳東下井陘擊趙、斬陳餘、獲趙王歇。置常山・代郡。甲戌晦、日有食之。十一月癸卯晦、日有食之。 

 隨何既說黥布、布起兵攻楚。楚使項聲・龍且攻布、布戰不勝。十二月、布與隨何間行歸漢。漢王分之兵、與俱收兵至成皋。 

 項羽數侵奪漢甬道、漢軍乏食、與酈食其謀橈楚權。食其欲立六國後以樹黨、漢王刻印、將遣食其立之。以問張良、良發八難。漢王輟飯吐哺、曰「豎儒幾敗乃公事。」令趨銷印。又問陳平、乃從其計、與平黃金四萬斤、以間疏楚君臣。 

 夏四月、項羽圍漢滎陽、漢王請和、割滎陽以西者為漢。亞父勸項羽急攻滎陽、漢王患之。陳平反間既行、羽果疑亞父。亞父大怒而去、發病死。 

 五月、將軍紀信曰「事急矣。臣請誑楚、可以間出。」於是陳平夜出女子東門二千餘人、楚因四面擊之。紀信乃乘王車、黃屋左纛、曰「食盡、漢王降楚。」楚皆呼萬歲、之城東觀、以故漢王得與數十騎出西門遁。令御史大夫周苛・魏豹・樅公守滎陽。羽見紀信、問「漢王安在。」曰「已出去矣。」羽燒殺信。而周苛・樅公相謂曰「反國之王、難與守城。」因殺魏豹。 

 漢王出滎陽、至成皋。自成皋入關、收兵欲復東。轅生說漢王曰「漢與楚相距滎陽數歲、漢常困。願君王出武關、項王必引兵南走、王深壁、令滎陽成皋間且得休息。使韓信等得輯河北趙地、連燕齊、君王乃復走滎陽。如此、則楚所備者多、力分。漢得休息、復與之戰、破之必矣。」漢王從其計、出軍宛葉間、與黥布行收兵。 

 羽聞漢王在宛、果引兵南、漢王堅壁不與戰。是月、彭越渡睢、與項聲・薛公戰下邳、破殺薛公。羽使終公守成皋、而自東擊彭越。漢王引兵北、擊破終公、復軍成皋。 

 六月、羽已破走彭越、聞漢復軍成皋、乃引兵西拔滎陽城、生得周苛。羽謂苛「為我將、以公為上將軍、封三萬。」周苛罵曰「若不趨降漢、今為虜矣。若非漢王敵也。」羽亨周戶苛、并殺樅公、而虜韓王信、遂圍成皋。漢王跳、獨與滕公共車出成皋玉門、北渡河、宿小脩武。自稱使者、晨馳入張耳、韓信壁、而奪之軍。乃使張耳北收兵趙地。 

 秋七月、有星孛于大角。漢王得韓信軍、復大振。八月、臨河南、軍小脩武、欲復戰鄉。郎中鄭忠止漢王、高壘深塹勿戰。漢王聽其計、使盧綰・劉賈將卒二萬人、騎數百、渡白說馬津入楚地、佐彭越燒楚積聚、復擊破楚軍燕郭西、攻下睢陽、外黃十七城。九月、羽謂海春侯大司馬曹咎曰「謹守成皋。即漢王欲挑戰、慎勿與戰、勿令得東而已。我十五日必定梁地、復從將軍。」羽引兵東擊彭越。漢王使酈食其齊王田廣、罷守兵與漢和。

 

【訓読】

 三年冬十月、韓信・張耳 東のかた井陘を下して趙を擊ち、陳餘を斬り、趙王歇を獲。常山・代郡を置く。甲戌(こうじゅつ)の晦(みそか)、日の之を食する有り。十一月癸卯(きぼう)の晦、日の之を食する有り。 

 隨何 既に黥布を說き、布 兵を起こして楚を攻む。楚 項聲・龍且(りゅうしょ)をして布を攻めしめ、布 戰うも勝てず。十二月、布 隨何と間行して漢に歸す。漢王 之に兵を分け、與に俱に兵を收めて成皋(せいこう)に至る。 

 項羽 數〱(しばしば)漢の甬道(ようどう)を侵奪し、漢軍 食を乏しくし、酈食其と謀りて楚の權を橈(とう)せんとす。食其 六國の後を立て以って樹黨せんと欲し、漢王 印を刻み、將に食其を遣して之を立てんとす。以って張良に問うに、良 八難を發す。漢王 飯を輟(や)め哺(ほ)を吐き、曰く「豎儒(じゅじゅ) 幾ど乃公(だいこう)の事を敗らんとす。」と。趨(すみやか)に印を銷(け)さしむ。又た陳平に問い、乃ち其の計に從い、平に黃金四萬斤を與え、以って楚の君臣を間疏にす。 

 夏四月、項羽 漢の滎陽(けいよう)を圍(かこ)み、漢王 和を請い、滎陽以西の者を割きて漢と為さんとす。亞父 項羽の急ぎ滎陽を攻むるを勸め、漢王 之を患(うれ)う。陳平の反間 既に行われ、羽 果たして亞父を疑う。亞父 大いに怒り而して去り、發病して死す。 

 五月、將軍の紀信 曰く「事急なり。臣 請うらくは楚を誑(あざむ)かんことを、以って間かに出るべし。」と。是に於いて陳平 夜に女子を東門より出すこと二千餘人、楚 因りて四面より之を擊たんとす。紀信 乃ち王車に乘り、黃屋(こうおく)左纛(さとう)より、曰く「食盡きて、漢王 楚に降らんとす。」と。楚 皆萬歲を呼し、城東に之(ゆ)きて觀、以って故に漢王 數十騎と出でて西門より遁るるを得。御史大夫の周苛(しゅうか)・魏豹・樅公(しょうこう)をして滎陽を守らしむ。羽 紀信を見て、問う「漢王 安(いずく)にか在る。」と。曰く「已に出でて去るなり。」と。羽 燒きて信を殺す。而して周苛・樅公 相い謂いて曰く「反國の王、與に城を守ること難(かた)し。」因りて魏豹を殺す。 

 漢王 滎陽より出でて、成皋に至る。成皋自(よ)り關に入り、兵を收め復た東せんと欲す。轅生(えんせい) 漢王に說きて曰く「漢 楚と滎陽に相距すること數歲、漢 常に困(くる)しむ。君王の武關より出づるを願い、項王 必ず兵を引きて南に走り、王 壁を深くし、滎陽・成皋の間をして且つ休息を得せしむ。韓信等をして河北の趙地と輯(しゅう)し、燕齊に連(つら)ぬるを得せしむれば、君王 乃ち復た滎陽に走る。此くの如くせば、則ち楚の備える所の者多く、力 分(わか)たる。漢 休息するを得、復た之と戰えば、之を破るは必なり。」と。漢王 其の計に從い、軍を宛葉の間に出し、黥布と行きて兵を收む。 

 羽 漢王の宛に在るを聞き、果たして兵を南に引き、漢王 壁を堅くして與に戰わず。是の月、彭越 睢(すい)を渡り、項聲・薛公と下邳(かひ)に戰い、破りて薛公を殺す。羽 終公をして成皋を守らしめ、而して自ら東のかた彭越を擊つ。漢王 兵を北に引き、擊ちて終公を破り、復た成皋に軍す。 

 六月、羽已に彭越を破り走らせ、漢の復た成皋に軍するを聞き、乃ち兵を引きて西のかた滎陽城を拔き、周苛を生得す。羽苛に謂うらく「我(わ)が將と為らば、公を以て上將軍と為し、三萬戶に封ぜん」と。周苛罵りて曰わく「若趨(すみ)やかに漢に降らざれば、今に虜と為らん。若漢王の敵に非ざるなり」と。羽周苛を亨(にころ)し、并びに樅公を殺して、韓王信を虜にし、遂(かく)て成皋を圍む。漢王跳(に)げ、獨り滕公と共に車もて成皋の玉門を出で、北のかた河を渡り、小脩武に宿る。自ら使者と稱し、晨(あした)に張耳・韓信の壁に馳せ入りて、之が軍を奪う。乃ち張耳をして北のかた兵を趙の地に收めしむ。 

 秋七月、星の大角に孛(はい)する有り。漢王韓信の軍を得て、復た大いに振るう。八月、河に臨み南に鄉(むか)いて小脩武に軍し、復た戰わんと欲す。郎中の鄭忠說きて漢王を止むるに、壘を高くし塹を深くし戰う勿かれと。漢王其の計を聽き、盧綰・劉賈をして卒二萬人、騎數百を將い、白馬津を渡りて楚の地に入り、彭越を佐(たす)け楚の積聚を燒かしめ、復た楚軍を燕の郭西に擊破し、攻めて睢陽・外黃十七城を下す。九月、羽海春侯大司馬曹咎に謂いて曰わく、「謹(つつし)んで成皋を守れ。即(たと)い漢王戰を挑まんと欲すとも、慎(つつ)しんで與に戰う勿かれ。東するを得しむる勿きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た將軍に從(つ)かん」と。羽兵を引きて東のかた彭越を擊つ。漢王酈食其をして齊王田廣を說かしめ、守兵を罷めて漢と和す。

 

【訳文】

 三年冬十月、韓信・張耳は東方に井陘を従わせて趙を討伐し、陳餘を斬り趙王歇を捕虜とした。(また)常山・代郡を設置した。甲戌の晦日に日食があった。(また)十一月癸卯の晦日に日食があった。 

 隨何が黥布に(漢王につくよう)説得してすぐに、黥布は兵を興して楚を攻めた。楚は項聲・龍且に黥布を攻撃させ、黥布は戦うも勝てなかった。十二月、黥布は隨何と共に人知れず漢に戻った。漢王は彼らに兵を分け与え、(彼らは)散じた兵を収容して成皋に至った。 

 項羽は何度も漢の甬道を侵奪し、漢は糧食が窮乏し、酈食其と謀をめぐらして楚の権勢を弱めようとした。酈食其は六国の子孫を立てて党派を作ろうと欲し、漢王は印を作らせ、ちょうど酈食其を派遣して国を建てようとした。(このことについて)張良に問うと、張良は八つの難点を指摘した。漢王は食事をやめ、口の中の食べ途中のものを吐き出して、言った「つまらない学者風情が危うく乃公(我が輩)の事業をだめにするところだった。」と。(そこで)急いで印を破棄させた。また、陳平に相談して、そこで彼の計略に従い、陳平に黃金四萬斤を与え、それでもって、楚の君臣の仲を裂こうとした。 

 夏四月、項羽は漢の滎陽を包囲し、漢王は和議を請い、滎陽以西を割いて漢とするよう提案した。亞父(范増)は急ぎ滎陽を攻撃するよう勧め、漢王はそれを憂慮した。陳平のスパイ工作が行われたので、項羽はその結果亞父を疑うようになった。亞父は(この事について)激怒して項羽のもとを去り、発病して死んだ。 

 五月に將軍の紀信が言った「事態は急を要します。楚を欺きましょう、その隙にここから脱出できるでしょう。」そして陳平が夜に女子二千人余りを東門より出すと、楚は四方よりこれを攻撃しようとした。紀信は黃屋左纛(語釈③を参照)の王車に乗り、そこから「食料は尽き果て、漢王は楚に降伏しようとしております。」と言った。楚の兵士は皆万歳と叫び、城の東へ行って(漢王の様子を見ようとして)、その隙に乗じたために、漢王は数十騎と西門より出て逃れることができた。(そして)御史大夫の周苛・魏豹・樅公に滎陽を守らせた。項羽は紀信を見て問うた「漢王はどこにいるのか。」と。(紀信は)「すでに城を出て去っております。」と答えた。項羽は紀信を焼き殺した。また、周苛・樅公はお互いに話し合って言った「反国の王魏豹と一緒では城を守ることは難しいだろう。」と。よって魏豹を殺害してしまった。 

 漢王は滎陽より出て成皋に到着した。(そして)成皋から函谷関に入り、兵を集めて再び東に行こうとした。轅という学者が説いて言った「漢は楚と数年にわたって滎陽をめぐり対峙しており、漢は常に動きがとれない状況です。王には武関より出ることを願います。項羽は必ず兵を引き連れて急ぎ南に向うので、漢王は城壁の囲いを厳重にして、滎陽・成皋の間でしばらく休息できるようにさせることです。韓信等を使い河北の趙と和を結び、燕齊と連合させることができれば、そこで漢王が再び滎陽へ急行します。そのようにすれば、楚は備える事が多岐にわたるため、力が分散されます。(そして)漢は休息することができれば、再び楚と戦うことがあれば、これを撃破するのは必定であります。」と。漢王はその計略に従い、軍を宛県と葉県の間に出して、黥布と行きながら兵を収容した。 

 項羽は漢王が宛県にいるのを聞き、やはり南に兵を率いて向かい、漢王は守りを堅固にして戦わなかった。この月に彭越は睢水を渡り、項聲・薛公と下邳にて戰い、薛公を撃破して殺害した。項羽は終公に成皋を守らせて、自ら東のかた彭越を攻撃した。漢王は兵を北へ引き連れて、終公を撃破し、再び成皋に駐屯した。 

 六月、項羽はほどなく彭越を破り追い払い、漢がさらに成皋に駐屯したのを聞き、そこで兵を率いて西のかた滎陽城を抜き、周苛を生け捕りにした。項羽が周苛に謂ったことには「我が将となれば、あなたを上将軍に任じ、食邑三萬戸に封じよう」と。周苛が罵って言うには「お前は、はやく漢に降らなければ、今に捕虜となるだろう。お前は漢王に敵う者ではないのだ」と。項羽は周苛を煮殺し、一緒に樅公を殺して、韓王信を捕虜にし、そのまま成皋を包囲した。漢王は逃げて、ただ滕公と共に車で成皋の城門を出て、北のかた黄河を渡り、小脩武で一晩を過ごした。自らを使者と称し、夜明けに張耳と韓信の陣営に車を馳せて入り、彼らの軍を奪った。そこで(漢王は)張耳に北のかた趙の地で兵を集めさせた。 

 秋七月、大角を侵す彗星があった。漢王は韓信の軍を得て、さらに大きく振るいたった。八月、黄河に臨み南に向かって小脩武に軍し、さらに戦おうとした。郎中の鄭忠が漢王を説得して止めさせようと言うには、「壘を高くし塹を深くし、戦ってはなりません」と。漢王はその計を聞きいれ、盧綰・劉賈に歩卒二万人と騎兵数百人を率いて、白馬津を渡って楚の地に入り、彭越を助けて楚の兵糧やまぐさなどを燒かせ、さらに楚軍を燕県の外城の西で擊破し、攻めて睢陽・外黃など十七城を降伏させた。九月、項羽は海春侯・大司馬の曹咎に言った。「慎重に成皋を守れ。たとえ漢王が戦を挑もうとしても、絶対に戦ってはならない。(お前の任務は漢王を)東進できなくさせることだけだ。私は十五日で必ず梁の地を定め、ふたたび将軍(あなた)と合流しよう」と。項羽は、兵を率いて東のかた彭越を攻撃した。漢王は酈食其に齊王の田廣を説得させ、(齊王の田廣は)守兵を解いて漢と和睦した。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,4,9(発表者 すぐろ) 

2017,4,16(発表者 すぐろ)

2017,4,23(発表者 董卓(護倭中郎将))