四年

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【原文】

 四年冬十月、韓信用蒯通計、襲破齊。齊王亨酈生、東走高密。項羽聞韓信破齊、且欲擊楚、使龍且救齊。漢果數挑成皋戰、楚軍不出、使人辱之數日、大司馬咎怒、渡兵汜水。士卒半渡、漢擊之、大破楚軍、盡得楚國金玉貨賂。大司馬咎・長史欣皆自剄汜水上。漢王引兵渡河、復取成皋、軍廣武、就敖倉食。 

 羽下梁地十餘城、聞海春侯破、乃引兵還。漢軍方圍鍾離眜於滎陽東、聞羽至、盡走險阻。羽亦軍廣武、與漢相守。丁壯苦軍旅、老弱罷轉餉。漢王・羽相與臨廣武之間而語。羽欲與漢王獨身挑戰、漢王數羽曰「吾始與羽俱受命懷王、曰先定關中者王之。羽負約、王我於蜀漢、罪一也。羽矯殺卿子冠軍、自尊、罪二也。羽當以救趙還報、而擅劫諸侯兵入關、罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽燒秦宮室、掘始皇帝冢、收私其財、罪四也。又彊殺秦降王子嬰、罪五也。詐阬秦子弟新安二十萬、王其將、罪六也。皆王諸將善地、而徙逐故主、令臣下爭畔逆、罪七也。出逐義帝彭城、自都之、奪韓王地、并王梁楚、多自與、罪八也。使人陰殺義帝江南、罪九也。夫為人臣而殺其主、殺其已降、為政不平、主約不信、天下所不容、大逆無道、罪十也。吾以義兵從諸侯誅殘賊、使刑餘罪人擊公、何苦乃與公挑戰。」羽大怒、伏弩射中漢王。漢王傷胸、乃捫足曰「虜中吾指。」漢王病創臥、張良彊請漢王起行勞軍、以安士卒、毋令楚乘勝。漢王出行軍、疾甚、因馳入成皋。 

 十一月、韓信與灌嬰擊破楚軍、殺楚將龍且、追至城陽、虜齊王廣。齊相田橫自立為齊王、奔彭越。漢立張耳為趙王。 

 漢王疾瘉、西入關、至櫟陽、存問父老、置酒。梟故塞王欣頭櫟陽市。留四日、復如軍、軍廣武。關中兵益出、而彭越・田橫居梁地、往來苦楚兵、絶其糧食。 

 韓信已破齊、使人言曰「齊邊楚、權輕、不為假王、恐不能安齊。」漢王怒、欲攻之。張良曰「不如因而立之、使自為守。」春二月、遣張良操印、立韓信為齊王。秋七月、立黥布為淮南王。八月、初為算賦。北貉・燕人來致梟騎助漢。漢王下令軍士不幸死者、吏為衣衾棺斂、轉送其家。四方歸心焉。 

 項羽自知少助食盡、韓信又進兵擊楚、羽患之。漢遣陸賈説羽、請太公、羽弗聽。漢復使侯公説羽、羽乃與漢約、中分天下、割鴻溝以西為漢、以東為楚。九月、歸太公・呂后、軍皆稱萬歳。乃封侯公為平國君。羽解而東歸。漢王欲西歸、張良・陳平諫曰「今漢有天下太半、而諸侯皆附、楚兵罷食盡、此天亡之時、不因其幾而遂取之、所謂養虎自遺患也。」漢王從之。

 

【訓読】

 四年冬十月、韓信蒯通の計を用い、襲いて齊を破る。齊王酈生を亨(にころ)し、東のかた高密に走る。項羽韓信の齊を破り、且に楚を擊たんと欲するを聞き、龍且をして齊を救わしむ。漢果たして數(しばし)ば成皋に戰いを挑むも、楚軍出でず、人をして之を辱しむること數日、大司馬咎怒り、兵を汜水に渡す。士卒半ば渡りしとき、漢之を擊ち、大いに楚軍を破り、盡く楚國の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣、皆な汜水の上(ほとり)に自剄す。漢王兵を引きて河を渡り、復た成皋を取り、廣武に軍し、敖倉の食に就く。 

 羽梁地の十餘城を下し、海春侯の破らるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢軍方に鍾離眜を滎陽東に圍み、羽の至るを聞き、盡く險阻に走る。羽亦た廣武に軍し、漢と與に相い守る。丁壯軍旅に苦しみ、老弱轉餉(てんしょう)に罷る。漢王・羽相い與に廣武の間に臨みて語る。羽漢王と獨身もて戰いを挑まんと欲するも、漢王羽に數えて曰く「吾始め羽と俱に命を懷王に受かり、曰く先に關中を定むるものこれを王とすと。羽約に負(そむ)き、我を蜀漢に王とするは、罪の一なり。羽矯(いつわ)りて卿子冠軍を殺し、自尊せるは、罪の二なり。羽當に趙を救うを以て還り報ずべきに、而して擅(ほしいまま)に諸侯の兵を劫(おど)して關に入るは、罪の三なり。懷王秦に入るに暴掠する無きを約すも、羽秦の宮室を燒き、始皇帝の冢を掘り、その財を收私するは、罪の四なり。又た彊いて秦の降王子嬰を殺すは、罪の五なり。詐りて秦の子弟を新安に阬(あなうめ)すること二十萬、その將を王とするは、罪の六なり。皆諸將を善地に王し、而して徙して故主を逐い、臣下をして爭い畔逆せしむるは、罪の七なり。義帝を出(いだ)して彭城より逐い、自らこれに都し、韓王の地を奪いて、并せて梁楚に王たりて、多く自らに与うは、罪の八なり。人をして陰(ひそか)に義帝を江南に殺さしむるは、罪の九なり。夫れ人臣為るにその主を殺し、その已に降るを殺し、政を為すに平らかならず、約を主りて信ならず、天下の容れざる所にして、大逆無道なるは、罪の十なり。吾義兵を以て諸侯に從い殘賊を誅するに、刑餘罪人をして公を擊たしむ、何ぞ苦しみて乃ち公と戰いを挑まん。」と。羽大怒し、伏弩射て漢王に中つ。漢王胸を傷(そこな)い、乃ち足を捫(な)でて曰く「虜吾が指に中つ。」と。漢王病創して臥し、張良漢王に彊いて起ち行きて軍を勞わり、以て士卒を安じ、楚に乘勝せしむること毋らんことを請う。漢王出でて行軍するも、疾い甚しく、因りて馳せて成皋に入る。 

 十一月、韓信と灌嬰楚軍を擊破し、楚將龍且を殺し、追いて城陽に至り、齊王廣を虜にす。齊相田橫自立して齊王となり、彭越に奔る。漢張耳を立てて趙王と為す。 

 漢王 疾瘉え、西のかた關に入り、櫟陽に至り、父老を存問し、酒を置く。故(もと)の塞王欣の頭を櫟陽の市に梟す。留むること四日、復た軍に如き、廣武に軍す。關中の兵 益(ますま)す出で、而して彭越・田橫 梁地に居し、往來して楚兵を苦しめ、その糧食を絶つ。 

 韓信 已に齊を破り、人をして言わしめて曰く「齊 楚に邊するも、權 輕し、假王と為らざれば、恐らくは齊を安んずること能わず。」と。漢王 怒り、これを攻めんと欲す。張良 曰く「因りてこれを立て、自ずから守りを為さしむるに如かず。」と。春二月、張良を遣わし印を操(も)たしめ、韓信を立てて齊王と為す。秋七月、黥布を立てて淮南王と為す。八月、初めて算賦を為す。北貉・燕人 來たりて梟騎を致し漢を助く。漢王 下令すらく軍士の不幸にして死せる者に、吏もて衣衾棺斂(いきんかんれん)を為し、その家に轉送す。四方 焉れに歸心す。 

 項羽 自ら助け少なく食の盡きたるを知り、韓信 又た兵を進め楚を擊つ、羽 これを患う。漢 陸賈を遣りて羽を説かしめ、太公を請うも、羽 聽(ゆる)さず。漢 復た侯公をして羽を説かしめ、羽 乃ち漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を割きて漢と為し、以東を楚と為す。九月、太公・呂后を歸し、軍 皆萬歳を稱(とな)う。乃ち侯公を封じて平國君と為す。羽 解きて東歸す。漢王 西歸を欲するも、張良・陳平 諫めて曰く「今 漢は天下の太半を有し、而して諸侯皆附し、楚 兵罷れ食盡き、これ天亡の時にして、その幾にして遂にこれを取るに因らざるは、所謂虎を養いて自ら患いを遺すなり。」と。漢王 これに從う。

 

【訳文】

 四年冬十月、韓信は蒯通の計を用い、齊を襲って破った。齊王の田廣は酈食其を煮殺し、東のかた高密に逃げた。項羽は、韓信が齊を破り楚を擊とうとしているのを聞き、龍且に齊を救援させた。漢軍は案の定、しばしば成皋城に戦いを挑んだが、楚軍は出ず、(漢軍は)人に楚を侮辱させ続けること数日、大司馬の曹咎は怒り、兵に汜水を渡らせた。士卒が半ば渡ったとき、漢軍が楚軍を攻撃し、楚軍を大破し、楚国の金玉財貨をすべて手に入れた。大司馬の曹咎・長史の司馬欣らは、みな汜水のほとりで自ら頸をはねた。漢王は兵を率いて黄河を渡り、さらに成皋を奪取し、廣武に駐屯し、敖倉の食糧を得た。 

 項羽は梁の十あまりの城を下し、海春侯が破られたことを聞いて、そこで兵を引いて還った。漢軍は鍾離眜を滎陽の東に囲んだところであったが、項羽が到着したと聞いて、みな防御の堅い場所へと逃げた。項羽はまた廣武に陣を敷き、漢軍と相対した。兵士達は従軍に苦しみ、本来軍役に耐えない立場のもの達はみな兵站輸送に疲弊していた。漢王と項羽は廣武の間で会談した。項羽は漢王と一騎打ちすることを望んだが、漢王は項羽にその罪を数え上げていった。「わたしははじめ項羽と俱に懷王に、先に関中を定めるものを王とするという命を受けた。項羽がこれを約束をしたが、それでいて私を蜀漢の王としたのは、第一の罪である。項羽が公子や上将軍をいつわって殺し、自らの地位を高めたのは、第二の罪である。項羽は趙を救う命を受けていたので(救った後は)、当然還って報告すべきであるのに、そのままほしいままに諸侯兵をおどして関に入ったのは、第三の罪である。懐王は秦に入るにあたって暴掠することがないよう約束したのに、項羽は秦の宮室を焼いて、始皇帝の陵墓を盗掘し、その財産を自分のものとしてしまったのは、第四の罪である。また、秦の降王である子嬰をあえて殺したのは、第五の罪である。いつわって二十万もの秦の子弟を新安に生き埋めにし、その將を王としたのは、第六の罪である。諸將ばかりをみな良い地に王とし、そして古い主を違う場所に封じ追い出して、そのことで臣下を争い反逆させてしまったのは、第七の罪である。義帝を彭城から追い出して、自ら彭城を都とし、韓王の地を奪って、梁楚を併合し、自らの領地を増やしたのは、第八の罪である。人をやって義帝を江南で暗殺したのは、第九の罪である。人の臣でありながらその主を殺し、すでに降っていたものを殺し、政治をしているのに平等でなく、約定を取り仕切りながら信義が無く、天下の誰もが受け入れられず、大逆無道なもので、第十の罪である。私は義兵をもって諸侯に従って残賊を誅殺しようとするので、刑罰を受けた罪人などを使って君を討つ、何故わざわざここで君と戦わなければならないのか。」項羽は大いに怒り、伏せた弩の兵が射ち漢王に命中させた。漢王は胸に傷を負ったが、そこで足を撫で探り、いった。「賊がわが指に当ておった。」と。漢王は創傷を病んで臥せ、張良は漢王にあえて立って軍をねぎらいにいって、それによって士卒を安心させ、楚に勝ちに乗じさせることがないよう請うた。漢王は出て行軍していたものの、病篤く、よって急いで成皋に入った。 

 十一月、韓信と灌嬰は楚軍を撃破し、楚將龍且を殺し、追って城陽に至り、齊王廣を捕虜とした。齊相田橫は自立して齊王となり、彭越のもとへ逃げた。漢は張耳を立てて趙王とした。 

 漢王は病気が癒えて、西に向かい関に入る、櫟陽に至って、父老を慰問し、酒宴を開いた。かつての塞王欣の頭を櫟陽の市でさらし首にした。留まること四日、軍に戻り、廣武に布陣した。関中の兵はますます軍に増加して、彭越・田橫は梁の地にとどまって、往來して楚兵を苦しめ、その兵站を絶った。 

 韓信はすでに斉を破り、人を使わして漢王に伝えていった「斉は楚と国境を面しているが、権が軽いので、もし仮の王とならなければ、恐らくは斉を安定させることが出来ないでしょう。」と。漢王は怒ってこれを攻めようとした。しかし、張良がいうには「韓信を王に立てて、自力で斉を守らせるほかないでしょう。」と。春二月、張良を派遣して印綬を持たせて、韓信を立てて斉王とした。秋七月、黥布を立てて淮南王とした。八月、初めて算賦を課した。北貉・燕人が来て勇猛な騎兵を提供して漢を助けた。漢王は命令を下し、軍士の不幸にも死んだ者に、官吏を使って衣服を整えさせ棺に収め、その家に返してやった。四方はその仁愛の心に帰順するようになった。 

 項羽は自ら助けも少なく食料も残り少ないことを知り、韓信もまた進軍してして楚を撃ち、項羽はこれを憂えた。漢は陸賈を派遣して項羽を説得し、太公を返して欲しいと頼んだが、項羽は受け入れなかった。漢はまた侯公を用いて項羽を説得すると、項羽はそこで漢と約束し、天下を二つにわけ、鴻溝以西を漢として、以東を楚とした。九月、太公・呂后が帰ってきて、軍は皆万歳をとなえた。そこで侯公を封じて平国君とした。項羽は布陣を解いて東帰した。漢王も西帰しようとしたが、張良・陳平は諫めていった「今漢は天下の大半を有しており、それによって諸侯は皆漢に帰付しているが、楚は兵士は疲れ食料も尽き、これは天下が楚を滅ぼそうとしている時であり、この状態に乗じることなく後々これをとろうとするのは、いわゆる「虎を養ってみずから憂いを遺す」ようなもので、楚を強くしてしまうだけである。」と。漢王はこれに從った。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,4,23(発表者 董卓(護倭中郎将))

2017,4,30(発表者 大蔵春)

2017,5,7(発表者 大蔵春)