二年

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【原文】

 二年冬十月、項羽使九江王布殺義帝於郴。陳餘亦怨羽獨不王己、從田榮藉助兵、以擊常山王張耳。耳敗走降漢、漢王厚遇之。陳餘迎代王歇還趙、歇立餘為代王。張良自韓間行歸漢、漢王以為成信侯。 

漢王如陝、鎮撫關外父老。河南王申陽降、置河南郡。使韓太尉韓信擊韓、韓王鄭昌降。十一月、立韓太尉信為韓王。漢王還歸、都櫟陽、使諸將略地、拔隴西。以萬人若一郡降者、封萬戶。繕治河上塞。故秦苑囿園池、令民得田之。 

 春正月、羽擊田榮城陽、榮敗走平原、平原民殺之。齊皆降楚、楚焚其城郭、齊人復畔之。諸將拔北地、虜雍王弟章平。赦罪人。二月癸未、令民除秦社稷、立漢社稷。施恩德、賜民爵。蜀漢民給軍事勞苦、復勿租稅二歲。關中卒從軍者、復家一歲。舉民年五十以上、有脩行、能帥眾為善、置以為三老、鄉一人。擇鄉三老一人為縣三老、與縣令丞尉以事相教、復勿繇戍。以十月賜酒肉。 

 三月、漢王自臨晉渡河、魏王豹降、將兵從。下河內、虜殷王卬、置河內郡。至脩武、陳平亡楚來降。漢王與語、說之、使參乘、監諸將。南渡平陰津、至洛陽、新城三老董公遮說漢王曰「臣聞『順德者昌、逆德者亡』、『兵出無名、事故不成』。故曰『明其為賊、敵乃可服。』項羽為無道、放殺其主、天下之賊也。夫仁不以勇、義不以力、三軍之眾為之素服、以告之諸侯、為此東伐、四海之內莫不仰德。此三王之舉也。」漢王曰「善、非夫子無所聞。」於是漢王為義帝發喪、袒而大哭、哀臨三日。發使告諸侯曰「天下共立義帝、北面事之。今項羽放殺義帝江南、大逆無道。寡人親為發喪、兵皆縞素。悉發關中兵、收三河士、南浮江漢以下、願從諸侯王擊楚之殺義帝者。」 

 夏四月、田榮弟橫收得數萬人、立榮子廣為齊王。羽雖聞漢東、既擊齊、欲遂破之而後擊漢、漢王以故得劫五諸侯兵、東伐楚。到外黃、彭越將三萬人歸漢。漢王拜越為魏相國、令定梁地。漢王遂入彭城、收羽美人貨賂、置酒高會。羽聞之、令其將擊齊、而自以精兵三萬人從魯出胡陵、至蕭、晨擊漢軍、大戰彭城靈壁東睢水上、大破漢軍、多殺士卒、睢水為之不流。圍漢王三帀。大風從西北起、折木發屋、揚砂石、晝晦、楚軍大亂、而漢王得與數十騎遁去。過沛、使人求室家、室家亦已亡、不相得。漢王道逢孝惠・魯元、載行。楚騎追漢王、漢王急、推墮二子。滕公下收載、遂得脱。審食其從太公・呂后間行、反遇楚軍、羽常置軍中以為質。諸侯見漢敗、皆亡去。塞王欣・翟王翳降楚、殷王卬死。 

 呂后兄周呂侯將兵居下邑、漢王往從之。稍收士卒、軍碭。 

 漢王西過梁地、至虞、謂謁者隨何曰「公能説九江王布使舉兵畔楚、項王必留擊之。得留數月、吾取天下必矣。」隨何往説布、果使畔楚。 

 五月、漢王屯滎陽、蕭何發關中老弱未傅者悉詣軍。韓信亦收兵與漢王會、兵復大振。與楚戰滎陽南京・索間、破之。築甬道、屬河、以取敖倉粟。魏王豹謁歸視親疾。至則絶河津、反為楚。 

 六月、漢王還櫟陽。壬午、立太子、赦罪人。令諸侯子在關中者皆集櫟陽為衞。引水灌廢丘、廢丘降、章邯自殺。雍地定、八十餘縣、置河上・渭南・中地・隴西・上郡。令祠官祀天地四方上帝山川、以時祠之。興關中卒乘邊塞。關中大飢、米斛萬錢、人相食。令民就食蜀漢。 

 秋八月、漢王如滎陽、謂酈食其曰「緩頰往說魏王豹、能下之、以魏地萬戶封生。」食其往、豹不聽。漢王以韓信為左丞相、與曹參・灌嬰俱擊魏。食其還、漢王問「魏大將誰也。」對曰「柏直。」王曰「是口尚乳臭、不能當韓信。騎將誰也。」曰「馮敬。」曰「是秦將馮無擇子也、雖賢、不能當灌嬰。步卒將誰也。」曰「項它。」曰「是不能當曹參。吾無患矣。」九月、信等虜豹、傳詣滎陽。定魏地、置河東・太原・上黨郡。信使人請兵三萬人、願以北舉燕趙、東擊齊、南絕楚糧道。漢王與之。

 

【訓読】

 二年冬十月、項羽九江王布をして義帝を郴(ちん)に殺さしむ。陳餘亦た羽の獨り己のみ王せざるを怨り、田榮從(よ)り助兵を藉(か)り、以って常山王の張耳を擊つ。耳敗走して漢に降り、漢王之を厚遇す。陳餘代王歇を迎え趙に還り、歇餘を立てて代王と為す。張良韓自り間行して漢に歸り、漢王以って成信侯と為す。 

漢王 陝に如(ゆ)き、關外の父老を鎮撫す。河南王の申陽 降り、河南郡を置く。韓の太尉韓信をして韓を擊たしめ、韓王の鄭昌 降る。十一月、韓の太尉信を立て韓王と為す。漢王 還歸し、櫟陽(れきよう)に都し、諸將をして略地せしめ、隴西を拔く。萬人若しくは一郡を以って降る者、萬戶に封ず。河上の塞を繕治(ぜんち)す。故の秦の苑囿(えんゆう)園池、民をして之を田(たが)やすを得せしむ。 

 春正月、羽 田榮を城陽に擊ち、榮 敗れて平原に走り、平原の民 之を殺す。齊は皆 楚に降り、楚 其の城郭を焚き、齊人 復た之に畔(そむ)く。諸將 北地を拔き、雍王の弟章平を虜とす。罪人を赦す。二月 癸未(きび)、民をして秦の社稷を除かしめ、漢の社稷を立つ。恩德を施し、民爵を賜う。蜀漢の民 軍事に勞苦を給し、復(ほく)して租稅を勿くすこと二歲。關中の卒 從軍する者、家に一歲を復(ほく)す。民の年の五十以上にして、脩行 有り、能く眾を帥い善を為すを舉げ、置きて以って三老と為し、鄉に一人なり。鄉三老の一人を擇び縣三老と為し、縣令丞尉と事を以って相い教え、復(ほく)して繇戍を勿しとす。以って十月に酒肉を賜う。 

 三月、漢王 臨晉自り河を渡り、魏王豹 降り、兵を將いて從う。河內を下し、殷王卬(ごう)を虜とし、河內郡を置く。脩武に至り、陳平 楚より亡げ來降す。漢王 與に語り、之を說(よろこ)び、參乘し、諸將を監せしむ。南のかた平陰津を渡り、洛陽に至り、新城の三老 董公遮りて漢王に說きて曰く「臣 聞く『德に順う者は昌、德に逆う者は亡』、『兵 出でて無名なれば、事 故に成らず』。故に曰く『其の賊たるを明かにし、敵 乃ち服すべし。』項羽 無道を為し、放に其の主を殺(しい)し、天下の賊なり。夫れ仁は勇を以ってせず、義は力を以ってせず、三軍の眾 之が為に素服して、以って之を諸侯に告げ、此れが為に東のかた伐し、四海の內 德を仰がざる莫し。此れ三王の舉なり。」と。漢王 曰く「善し、夫子に非ざれば聞く所無し。」と。是に於いて漢王 義帝の為に喪を發し、袒(はだぬ)ぎ而して大いに哭し、哀臨すること三日。使を發して諸侯に告げて曰く「天下 共に義帝を立て、北面して之に事う。今項羽 放に義帝を江南に殺し、大逆無道なり。寡人 親ら為に喪を發し、兵 皆縞素(こうそ)たり。悉く關中の兵を發し、三河の士を收め、南のかた江漢に浮かべ以って下り、願くば諸侯・王に從い楚の義帝を殺す者を擊たん。」と。 

 夏四月、田榮の弟の橫收めて數萬人を得、榮の子の廣を立てて齊王と為す。羽漢の東するを聞くと雖も、既に齊を擊ち、これを破り遂げ而る後に漢を擊たんと欲すれば、漢王以て故に劫して五諸侯兵を得、東のかた楚を伐つ。外黃に到り、彭越三萬人を將い漢に歸す。漢王越に拜して魏の相國と為し、梁地を定めしむ。漢王遂に彭城に入り、羽の美人貨賂を收め、酒を置きて高會す。羽これを聞くや、その將をして齊を擊たしめ、而して自ら精兵三萬人を以て魯より胡陵に出で、蕭に至り、晨に漢軍を擊ち、大いに彭城の靈壁の東の睢水の上に戰い、大いに漢軍を破り、多く士卒を殺し、睢水これが為に流れず。漢王を三帀に圍む。大風西北より起こり、木を折り屋を發し、砂石を揚げ、晝(ひる)にして晦く、楚軍大いに亂れ、而して漢王數十騎とともに遁れ去るを得る。沛を過ぎ、人をして室家を求めしむも、室家も亦た已に亡げ、相い得ず。漢王道に孝惠・魯元に逢い、載せ行く。楚騎漢王を追い、漢王急ぎ、推して二子を墮とす。滕公下り收め載せ、遂て脱がるるを得る。審食其太公・呂后を従え間行するも、反って楚軍に遇い、羽常に軍中に置きて以て質と為す。諸侯、漢の敗るるに見え、皆な亡去せる。塞王欣・翟王翳楚に降り、殷王卬死す。 

 呂后の兄の周呂侯、兵を將いて下邑に居り、漢王往きてこれに從う。稍く士卒を收め、碭に軍す。 

 漢王西のかた梁地を過ぎ、虞に至り、謁者隨何に謂いて曰く「公能く九江王布を説き兵を舉げ楚に畔かしむれば、項王必ず留りてこれを擊つ。數月留むを得れば、吾れ天下を取ること必なり。」と。隨何往きて布を説き、果たして楚に畔かしむ。 

 五月、漢王滎陽に屯し、蕭何關中の老弱にして未だ傅かざる者に悉く軍に詣らしむ。韓信も亦た兵を收め漢王と會し、兵復た大いに振るう。楚と滎陽の南の京・索間に戰い、これを破る。甬道を築き、河に屬(しょく)し、以って敖倉の粟を取る。魏王豹親の疾を視(しめ)して歸を謁す。至りて則ち河津を絶ち、楚が為に反す。 

 六月、漢王 櫟陽(れきよう)に還る。壬午(じんご)、太子を立て、罪人を赦す。諸侯子の關中に在る者をして皆櫟陽に集め衞と為さしむ。水を引き廢丘に灌(そそ)ぎ、廢丘 降り、章邯 自殺す。雍の地 定まること、八十餘縣、河上・渭南・中地・隴西・上郡を置く。祠官をして天地・四方・上帝・山川を祀り、以って時に之を祠(まつ)らしむ。關中の卒を興し邊塞に乘す。關中 大いに飢え、米 斛ごとに萬錢、人 相い食う。民をして蜀漢に就食せしむ。 

 秋八月、漢王 滎陽に如き、酈食其(れきいき)に謂いて曰く「緩頰(かんきょう)もて往きて魏王豹に說き、能く之を下せば、魏地の萬戶を以って生を封ぜん。」と。食其 往くも、豹 聽さず。漢王 韓信を以って左丞相と為し、曹參・灌嬰と俱に魏を擊たんとす。食其 還り、漢王 問う「魏の大將は誰ぞや。」對えて曰く「柏直なり。」と。王 曰く「是れ口 尚お乳臭あり、韓信に當たる能はず。騎の將は誰ぞや。」と。曰く「馮敬なり。」と。曰く「是れ秦將の馮無擇(ふうむたく)の子なり、賢なりと雖も、灌嬰に當る能はず。步卒の將は誰ぞや。」と。曰く「項它なり。」と。曰く「是れ曹參に當る能はず。吾れ患無し。」と。九月、信等 豹を虜にし、傳 滎陽に詣(いた)る。魏の地を定め、河東・太原・上黨郡を置く。信 人をして兵三萬人を請わしめ、願うに以って北のかた燕・趙を舉げ、東のかた齊を擊ち、南のかた楚の糧道を絕たんと。漢王 之を與(あた)う。

 

【訳文】

 二年冬十月、項羽は九江王の英布に義帝を郴の地にて殺させた。陳餘は項羽が自分だけ王に封じなかったことに怒り、田榮から援兵を借りて、常山王の張耳を攻撃した。張耳は敗走して漢に降り、漢王は張耳を厚遇した。陳餘は代王の歇を迎え入れて趙に帰還し、歇は陳餘を代王とした。張良は韓よりひそかに抜け出し、漢に帰り、漢王は張良を成信侯にした。 

 漢王は陝に行き、關外の父老たちを鎮撫した。河南王の申陽が降伏し、河南郡を設置した。韓の太尉韓信に韓を攻撃させ、韓王の鄭昌が降伏した。十一月に韓の太尉韓信を韓王とした。漢王は帰還して、都を櫟陽に定だめ、諸將に敵地を攻めとらせ、隴西を攻め落とした。一万人または一郡をひきいて降伏する者は万戸侯に封じた。(また)河上の塞を補修した。旧秦の苑囿園池は(一般に開いて)民が耕作できるようにさせた。 

 春正月、項羽は田榮を城陽にて攻撃し、田栄は敗北して平原に遁走し、平原の民は田栄を殺した。齊国内の諸勢力はすべて楚に降伏し、楚が齊の城郭を焼いたため、齊の人々は再び楚に叛いた。(漢の)諸將は北地を攻め落とし、雍王の弟章平を捕虜とした。(また)罪人を赦免した。二月癸未、民に秦の社稷を廃止させ、(新たに)漢の社稷をまつった。(そして民に)恩徳をあたえ、民爵を賜与した。蜀漢の民衆は軍役を提供したので、租税を二年分免除した。關中の兵卒で従軍した者は家にかける賦役を免除した。五十歳以上の民で、德行を修め養うところがあり、衆を率いて善をなすことができる人物を挙げ、三老として鄉に一人を置いた。鄉三老から一人を選出して縣三老として、縣令・丞尉と連携して互いに連絡をとり合い、戌辺の役を免除した。十月には酒肉を賜与した。 

 三月、漢王は臨晉より黄河を渡り、(これにより)魏王豹が降伏し、兵を率いて從ってきた。(また)河內を落して、殷王卬を捕虜とし、河內郡を置いた。脩武に至って、陳平が楚より逃げ出して降伏してきた。漢王は(陳平と)ともに語り合い、このことに悦び、車に添え乗りし、諸將を監督させた。南のかた平陰津を渡り、洛陽に到着すると、新城の三老である董公という者が漢王を遮って言った「私は次のように聞いております。『徳にしたがう者は栄え、徳に逆らう者は滅ぶ』『出兵しても名義がなければ、それ故に事は成らない』そのため『それが賊であるということを明らかにすれば、敵は従うことができる』という訳です。項羽は道に外れたことをして、思いのままに主君を殺し、天下の賊であります。仁があれば勇を用いることはなく、義があれば力を用いることはなく、三軍の衆はこのために素服の格好にして、このことを諸侯に告げ広め、それを理由にして東のかた(項羽を)討伐すれば、天下の内には(漢王の)徳を仰がない者はいないでしょう。これは夏・殷・周の三王のふるまいであります。」と。漢王は言った「よし、あなたでなければ、私はその言葉を聞くことはなかったでしょう。」ここにおいて、漢王は義帝の為に喪を発して、着物のそでを脱いで、はだぬぎになり、大声で号泣し悲しみを表すこと三日。使いを出して諸侯に告げて言った「天下は共に義帝を擁立して、北に向かい皇帝陛下にお仕えした。今、項羽が思いのままに義帝を江南で殺して、(これは)大逆無道である。私は自ら義帝のために喪を発して、兵士は皆白色の喪服を着ている。ことごとく関中の兵を発して、三河の士をとり込み、南のかた江漢に舟を浮かべて下り、願わくば諸侯・王に従って楚の義帝を殺す者を撃ちたいと思う。」 

 夏四月、田栄の弟の田横が、数万人を得て戦力とし、田栄の子の田広を擁立して斉王した。項羽は、漢が東征を始めたことを聞いたが、既に斉を攻撃する段階に入っているため、斉軍を完全に撃破してから漢に対処しようと考えたため、漢王はそれによって常山・河南・韓・魏・殷の五諸侯の兵を脅し取って、東にむかって楚討伐の軍を興した。外黄に到着したところ、彭越は三万人の兵を連れて漢に帰順した。漢王は彭越を任じて魏の相国とし、梁の地を平定させた。漢王はとうとう彭城を陥落させ、項羽の後宮の女性や財貨を奪い、酒を振る舞って宴会を始めた。項羽はこれを聞いて、その将に斉攻撃を継続させ、自分は精兵三万人を率い魯経由で胡陵を出て、蕭に一時滞陣し、翌朝に漢軍を攻撃し、彭城の靈壁という県の東の睢水の上で大いに戦い、大いに漢軍を破り、多く士卒を殺し、その勝ちぶりは死体が睢水を塞いで流れなくなる程であった。漢王を三重に囲んだ。大風が北西からおこり、木を折り屋根を飛ばしてしまい、砂や石が空中を舞い、昼にも関わらず暗くなる程で、楚軍は混乱し、漢王はそれに乗じて数十騎とともに逃げ延びることができた。沛を通り過ぎ、人をやって家族を探してみたが、家族もまた既に逃亡しており、会うことができなかった。漢王は道中で後の孝惠皇帝・魯元公主に逢い、馬車に載せていくことにした。楚の騎兵が漢王を追いかけており、漢王は急ぎ、押して二人を落とした。後の滕公、夏侯嬰は下りて載せ直し、こうして逃れることが出来た。審食其は太公・呂后を従えてひそかにかくれ行くも、かえって楚軍にあってしまい、項羽は常に陣中に置いて人質とした。諸侯は漢が敗れた現実を知り、皆漢の麾下から逃げだした。塞王欣と翟王翳は楚に降り、殷王卬は死んだ。 

 呂后の兄の周呂侯は兵を率いて下邑におり、漢王はいってこれを従えた。ようやく兵を収めて、碭に陣をしいた。 

 漢王は西に向かい梁の地を過ぎ、虞に到着して、謁者の隨何に言った「きみが九江王の英布を説いて兵を挙げ楚から離反させるならば、項王は必ず留ってこれを迎撃するだろう。数ヶ月時間を稼いでくれるならば、私は天下を必ず取れる。」隨何は行って英布を説き、果たして楚から離反させた。 

 五月、漢王は滎陽に駐屯し、蕭何は漢中の兵役外の年齢のものにも総動員をかけた。韓信もまた兵を集めて漢王の元に戻り、兵はまた大いに精気をとりもどした。楚と滎陽の南の京・索の間で戦って、これを破った。、垣根を築いて道を作り、河につなげ、それによって敖倉の糧食を補給した。魏王豹は親が病であるといって国元に戻る事を請うた。魏に戻ってすぐに港を封鎖し、離反して楚についた。 

 六月、漢王は櫟陽に帰還した。壬午に太子を立てて罪人を赦免した。諸侯国の人で関中にいる者を全て櫟陽に集め衛士にさせた。廢丘に水を引いて水攻めを行い、廢丘は降伏して、章邯は自殺した。雍の地を平定すること八十余県で、河上・渭南・中地・隴西・上郡を設置した。祭祀をつかさどる祠官に天地・四方・上帝・山川の神を祀り、時期に応じて(神々を)まつらせた。関中の兵を徴用して国境近くの城砦を守備した。(時に)関中は深刻な食糧不足に陥り、米糧の価格は一斛につき一万錢に高騰し、人々は相食らい合う有様であった。(そこで)民を蜀漢の糧食で食いつながせた。 

 秋八月、漢王は滎陽に行き、酈食其に言った「魏王豹の下へ行き、静かに譬えを用い諭して、彼を降伏させることができれば、先生に魏の領地一万戸を封じよう。」(それを受けて)酈食其が(魏王の下へ)行ったが、魏王豹は受け入れなかった。漢王は韓信を左丞相にして、曹參・灌嬰と共に魏を討伐しようとした。酈食其が帰還し、漢王が(彼に)問うた「魏の大將は誰だ。」(酈食其は)答えて言った「柏直です。」王は言う「これは口がまだ乳臭い幼児であり、韓信に対抗することはできないだろう。騎兵の将は誰か。」酈食其が答える「馮敬です。」王は「これは秦将の馮無擇の子である、賢明であるといえども、灌嬰に対抗することはできないだろう。步兵の将は誰か。」と言った。(また)酈食其は答える「項它です。」と。王は言った「これは曹參に対抗することはできないだろう。私は何も心配することはない。」九月、韓信等は魏王豹と戦ってこれを捕虜にし、駅継ぎの馬が滎陽に至った。魏の地を平定し、河東・太原・上黨郡を設置した。韓信は使いをよこして、兵三万人を求めさせ、これでもって北方に燕・趙を占領し、東方は齊を攻撃し、南方は楚の糧道を絶とうと願い出た。漢王は(この申し出を受け入れ)兵三万を与えた。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,3,26(発表者 すぐろ)

2017,4,2(発表者 大蔵春)

2017,4,9(発表者 すぐろ)