五年

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【原文】

 五年冬十月、漢王追項羽至陽夏南止軍、與齊王信、魏相國越期會擊楚、至固陵、不會。楚擊漢軍、大破之。漢王復入壁、深塹而守。謂張良曰「諸侯不從、柰何。」良對曰「楚兵且破、未有分地、其不至固宜。君王能與共天下、可立致也。齊王信之立、非君王意、信亦不自堅。彭越本定梁地、始君王以魏豹故、拜越為相國。今豹死、越亦望王、而君王不早定。今能取睢陽以北至穀城皆以王彭越、從陳以東傅海與齊王信。信家在楚、其意欲復得故邑。能出捐此地以許兩人、使各自為戰、則楚易敗也。」於是漢王發使使韓信・彭越。至、皆引兵來。 十一月、劉賈入楚地、圍壽春。漢亦遣人誘楚大司馬周殷。殷畔楚、以舒屠六、舉九江兵迎黥布、並行屠城父、隨劉賈皆會。 

 十二月、圍羽垓下。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、知盡得楚地、羽與數百騎走、是以兵大敗。灌嬰追斬羽東城。楚地悉定、獨魯不下。漢王引天下兵欲屠之、為其守節禮義之國、乃持羽頭示其父兄、魯乃降。初、懷王封羽為魯公、及死、魯又為之堅守、故以魯公葬羽於穀城。漢王為發葬、哭臨而去。封項伯等四人為列侯、賜姓劉氏。諸民略在楚者皆歸之。漢王還至定陶、馳入齊王信壁、奪其軍。初項羽所立臨江王共敖前死、子尉嗣立為王、不降。遣盧綰・劉賈擊虜尉。 

 春正月、追尊兄伯號曰武哀侯。下令曰「楚地已定、義帝亡後、欲存恤楚眾、以定其主。齊王信習楚風俗、更立為楚王、王淮北、都下邳。魏相國建城侯彭越勤勞魏民、卑下士卒、常以少擊眾、數破楚軍、其以魏故地王之、號曰梁王、都定陶。」又曰「兵不得休八年、萬民與苦甚。今天下事畢、其赦天下殊死以下。」 

 於是諸侯上疏曰「楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・故衡山王吳芮・趙王張敖・燕王臧荼昧死再拜言大王陛下、先時秦為亡道、天下誅之。大王先得秦王、定關中、於天下功最多。存亡定危、救敗繼絕、以安萬民、功盛德厚。又加惠於諸侯王有功者、使得立社稷。地分已定、而位號比儗、亡上下之分、大王功德之著、於後世不宣。昧死再拜上皇帝尊號。」漢王曰「寡人聞帝者賢者有也、虛言亡實之名、非所取也。今諸侯王皆推高寡人、將何以處之哉。」諸侯王皆曰「大王起於細微、滅亂秦、威動海內。又以辟陋之地、自漢中行威德、誅不義、立有功、平定海內、功臣皆受地食邑、非私之也。大王德施四海、諸侯王不足以道之、居帝位甚實宜、願大王以幸天下。」漢王曰「諸侯王幸以為便於天下之民、則可矣。」於是諸侯王及太尉長安侯臣綰等三百人、與博士稷嗣君叔孫通謹擇良日二月甲午、上尊號。漢王即皇帝位于氾水之陽。尊王后曰皇后、太子曰皇太子、追尊先媼曰昭靈夫人。 

 詔曰「故衡山王呉芮與子二人・兄子一人、從百粤之兵、以佐諸侯、誅暴秦、有大功、諸侯立以為王。項羽侵奪之地、謂之番君。其以長沙・豫章・象郡・桂林・南海立番君芮為長沙王。」又曰「故粤王亡諸世奉粤祀、秦侵奪其地、使其社稷不得血食。諸侯伐秦、亡諸身帥閩中兵以佐滅秦、項羽廢而弗立。今以為閩粤王、王閩中地、勿使失職。」 

 帝乃西都洛陽。夏五月、兵皆罷歸家。詔曰「諸侯子在關中者、復之十二歳、其歸者半之。民前或相聚保山澤、不書名數、今天下已定、令各歸其縣、復故爵田宅、吏以文法教訓辨告、勿笞辱。民以飢餓自賣為人奴婢者、皆免為庶人。軍吏卒會赦、其亡罪而亡爵及不滿大夫者、皆賜爵為大夫。故大夫以上賜爵各一級、其七大夫以上、皆令食邑、非七大夫以下、皆復其身及戸、勿事。」又曰「七大夫・公乘以上、皆高爵也。諸侯子及從軍歸者、甚多高爵、吾數詔吏先與田宅、及所當求於吏者、亟與。爵或人君、上所尊禮、久立吏前、曾不為決、甚亡謂也。異日秦民爵公大夫以上、令丞與亢禮。今吾於爵非輕也、吏獨安取此。且法以有功勞行田宅、今小吏未嘗從軍者多滿、而有功者顧不得、背公立私、守尉長吏教訓甚不善。其令諸吏善遇高爵、稱吾意。且廉問、有不如吾詔者、以重論之。」 

 帝置酒雒陽南宮。上曰「通侯諸將毋敢隱朕、皆言其情。吾所以有天下者何。項氏之所以失天下者何。」高起・王陵對曰「陛下嫚而侮人、項羽仁而敬人。然陛下使人攻城略地、所降下者、因以與之、與天下同利也。項羽妒賢嫉能、有功者害之、賢者疑之、戰勝而不與人功、得地而不與人利、此其所以失天下也。」上曰「公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房填國家、撫百姓、給餉餽、不絕糧道、吾不如蕭何連百萬之眾、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。三者皆人傑、吾能用之、此吾所以取天下者也。項羽有一范增而不能用、此所以為我禽也。」羣臣說服。 

 初、田橫歸彭越。項羽已滅、橫懼誅、與賓客亡入海。上恐其久為亂、遣使者赦橫、曰「橫來、大者王、小者侯.。不來、且發兵加誅。」橫懼、乘傳詣雒陽、未至三十里、自殺。上壯其節、為流涕、發卒二千人、以王禮葬焉。 

 戍卒婁敬求見、説上曰「陛下取天下與周異、而都雒陽、不便、不如入關、據秦之固。」上以問張良、良因勸上。是日、車駕西都長安。拜婁敬為奉春君、賜姓劉氏。六月壬辰、大赦天下。 

 秋七月、燕王臧荼反、上自將征之。九月、虜荼。詔諸侯王視有功者、立以為燕王。荊王臣信等十人皆曰「太尉長安侯盧綰功最多、請立以為燕王。」使丞相噲將兵平代地。 

 利幾反、上自擊破之。利幾者、項羽將。羽敗、利幾為陳令、降、上侯之潁川。上至雒陽、舉通侯籍召之、而利幾恐、反。 

 後九月、徙諸侯子關中。治長樂宮。

 

【訓読】

 五年冬十月、漢王項羽を追いて陽夏の南に至り軍を止め、齊王信・魏相國越と期會して楚を擊たんとし、固陵に至るも、會せず。楚漢軍を擊ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして守る。張良に謂いて曰わく「諸侯の從わざるは、柰何せん」と。良對えて曰わく「楚兵且に破れんとするも、未だ分地有らず、其の至らざるは固より宜なり。君王能く與に天下を共にせば、立ちどころに致すべきなり。齊王信の立つは、君王の意に非ず、信も亦た自ら堅くせず。彭越本と梁地を定め、始め君王魏豹を以ての故に、越を拜して相國と為す。今豹死し、越も亦た王たるを望むも、君王早に定めず。今能く取かに睢陽以北穀城に至るは皆な以て彭越を王たらしめ、陳より以東海に傅るは齊王信に與えよ。信の家楚に在り、其の意復た故邑を得んことを欲す。能く此の地を出捐し以て兩人に許し、各をして自ら為に戰わしむれば、則ち楚敗れ易きなり」と。是に於いて漢王使を發して韓信・彭越に使いせしむ。至りて、皆な兵を引きて來る。 

 十一月、劉賈楚地に入り、壽春を圍む。漢も亦た人を遣りて楚の大司馬周殷を誘わしむ。殷楚に畔き、舒を以て六を屠り、九江の兵を舉げて黥布を迎え、並びに行きて城父を屠り、劉賈に隨いて皆な會す。 

 十二月、羽を垓下に圍む。羽夜に漢軍の四面皆な楚歌するを聞き、盡く楚地を得たるを知り、羽數百騎と走り、是を以て兵大いに敗る。灌嬰追いて羽を東城に斬る。楚地悉く定まり、獨り魯のみ下らず。漢王天下の兵を引きて之を屠らんと欲すれども、其の守節禮義の國たるを為い、乃ち羽の頭を持ちて其の父兄に示し、魯乃ち降る。初め、懷王羽を封じて魯公と為し、死するに及びて、魯又た之が為に堅守し、故に魯公を以て羽を穀城に葬す。漢王為に葬を發し、哭臨して去る。項伯等四人を封じて列侯と為し、姓劉氏を賜う。諸民の略し楚に在る者皆な之に歸す。漢王還りて定陶に至り、齊王信の壁に馳せ入りて、其の軍を奪う。初め項羽の立つる所の臨江王共敖前に死し、子の尉嗣ぎ立ちて王と為るも、降らず。盧綰・劉賈を遣りて擊ちて尉を虜とせしむ。 

 春正月、兄伯を追尊して號して武哀侯と曰う。令を下して曰わく「楚地已に定まり、義帝亡き後、楚眾を存恤し、以て其の主を定めんと欲す。齊王韓信楚の風俗に習れたれば、更めて立てて楚王となし、淮北に王たらしめ、下邳に都す。魏の相國建城侯彭越魏民を勤勞し、士卒に卑下し、常に少きを以て眾きを擊ち、數ば楚軍を破りたれば、其れ魏の故地を以て之に王たらしめ、號して梁王と曰い、定陶に都す」と。又た曰わく「兵休みを得ざること八年、萬民苦しむこと甚し。今天下の事畢わり、其れ天下の殊死以下を赦せん」と。 

 是に於いて諸侯 上疏して曰く「楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・故の衡山王吳芮・趙王張敖・燕王臧荼 昧死再拜して言す、大王陛下、先時に秦の亡道を為すや、天下之を誅す。大王 先ず秦王を得、關中を定め、天下に於いて功 最も多し。亡びたるを存し危うきを定め、敗れるを救い絕えたるを繼ぎ、以って萬民を安んじ、功 盛んにして德 厚し。又た惠を諸侯王の功有る者に加え、社稷を立つるを得しむ。地分 已に定まるも、位號比儗し、上下の分 亡く、大王の功德の著、後世に宣かならず。昧死再拜して皇帝の尊號を上らん。」漢王 曰く「寡人 聞くならく帝は賢者の有するものなり、虛言亡實の名、取る所に非ざるなり。今諸侯王 皆推して寡人を高しとす、將何を以ってか之に處らんや。」と。諸侯王 皆曰く「大王 細微より起ち、亂秦を滅し、威 海內を動かす。又た辟陋の地を以って、漢中自り威德を行い、不義を誅し、有功を立て、海內を平定し、功臣皆地を受け邑を食み、之を私にすること非ざるなり。大王の德 四海に施され、諸侯王 以って之を道うに足らず、帝位に居ること甚だ實宜なり、願わくば大王 以って天下に幸せんことを。」と。漢王 曰く「諸侯王 幸い以って天下の民に便すと為せば、則ち可なり。」と。是に於いて諸侯王及び太尉長安侯臣綰等三百人、博士稷嗣君叔孫通と謹んで良日を擇び二月甲午、尊號を上る。漢王 皇帝位に氾水の陽に即く。王后を尊び皇后と曰い、太子を皇太子と曰い、先媼を追尊して昭靈夫人と曰う。 

 詔して曰く「故の衡山王の呉芮子二人・兄子一人と百粤の兵を從え、以て諸侯を佐け、暴秦を誅し、大功有り、諸侯立てて以て王と為す。項羽之の地を侵奪し、之を番君と謂う。其れ長沙・象郡・桂林・南海を以て番君芮を立てて長沙王と為す」と。又た曰く「故の粤王の亡諸世〻粤の祀を奉ずるも、秦其の地を侵奪し、其の社稷をして血食を得ざらしむ。諸侯の秦を伐つや、亡諸身ら閩中の兵を帥いて以て秦を滅ぼすを佐けたるも、項羽廢して立てず。今以て閩粤王と為し、閩中の地に王たらしめ、職を失わしむ勿れ」と。 

 帝乃ち西のかた洛陽に都す。夏五月、兵皆な罷めて家に歸る。詔して曰く「諸侯子の關中に在る者、之を復すること十二歳、其の歸る者之に半ばす。民前に或いは相い聚まりて山澤に保し、名數を書せざれども、今天下已に定まれば、各〻をして其の縣に歸らしめ、故爵田宅を復し、吏は文法を以て教訓辨告し、笞辱すること勿れ。民の飢餓するを以て自ら賣りて人の奴婢と為る者、皆な免じて庶人と為す。軍の吏卒の赦に會いしもの、其の罪亡くして爵亡きもの及び大夫に滿たざる者は、皆な爵を賜いて大夫と為す。故と大夫以上なるは爵を賜うこと各〻一級、其の七大夫以上なるは、皆な邑を食ましめ、七大夫に非ざる以下なるは、皆な其の身及び戸を復し、事う勿れ」と。又た曰く「七大夫・公乘以上、皆な高爵なり。諸侯子の從軍して歸るに及ぶ者、甚だ高爵多く、吾數〻吏に詔するに先づ田宅を與え、所に及びて當に吏に求むるべき者あらば、亟やかに與えよと。爵或いは人君にして、上の尊禮する所なるに、久しく吏の前に立つも曾ち決を為さざるは、甚だ謂亡きなり。異日秦の民爵の公大夫以上、令丞與に亢禮す。今吾れ爵に於いて輕んずるに非ざるなり、吏獨り安んぞ此れを取らんや。且つ法功勞有るを以って田宅を行うも、今小吏未だ嘗て從軍せざる者多く滿ち、而して有功の者顧って得ず、公に背して私を立て、守尉長吏の教訓甚だ善からず。其の諸吏をして高爵を善遇し、吾が意に稱わしめよ。且つ廉問して、吾が詔の如くせざる者有らば、重きを以って之を論ぜよ。」 

 帝酒を雒陽の南宮に置く。上曰く「通侯・諸將敢えて朕に隱すこと毋れ、皆其の情を言え。吾れの天下を有する所以は何ぞ。項氏の天下を失う所以は何ぞ。」高起・王陵對えて曰く「陛下嫚りて人を侮り、項羽仁にして人を敬う。然れども陛下人をして城を攻め地を略せしめ、降下する所は、因りて以って之に與え、天下を與にし利を同じくするなり。項羽賢を妒たみ能を嫉ねみ、有功の者は之を害し、賢者は之を疑い、戰勝して人に功を與えず、得地して人に利を與えず、此れ其の天下を失う所以なり。」上曰く「公其の一を知り、未だ其の二を知らず。夫れ籌を帷幄の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾は子房に如かず。國家を填ずめ、百姓を撫し、餉餽を給し、糧道を絕やさざるは、吾れ蕭何に如かず。百萬の眾を連ね、戰えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るは、吾れ韓信に如かず。三者皆人傑にして、吾れ能く之を用う、此れ吾の天下を取る所以の者なり。項羽一つの范增有るも用いること能はず、此れ我が禽となる所以なり。」と。羣臣說服す。 

 初め、田橫彭越に歸す。項羽已に滅び、橫誅を懼れ、賓客と亡げて海に入る。上其の久しく亂を為すを恐れ、使者を遣わして橫を赦さしめて、曰く「橫來たらば、大なる者は王、小なる者は侯たらん。來らずんば、且に兵を發して誅を加えん」と。橫懼れ、乘傳もて雒陽に詣り、未だ至らざること三十里にして、自殺す。上其の節を壯なりとし、為に流涕し、卒二千人を發し、王禮を以て焉を葬す。 

 戍卒の婁敬見えんことを求め、上に説きて曰く「陛下の天下を取ること周と異なるも、而れども雒陽に都するは、便ならず、關に入りて、秦の固めに據るに如かず」と。上以て張良に問うや、良因りて上に勸む。是の日、車駕西のかた長安に都す。婁敬を拜して奉春君と為し、姓劉氏を賜う。六月壬辰、天下に大赦す。 

 秋七月、燕王の臧荼反し、上自ら將いて之を征す。九月、荼を虜にす。諸侯王に詔ししめて功有る者を視さしめ、立てて以て燕王と為さんとす。荊王臣信等十人皆な曰く「太尉の長安侯の盧綰功最も多く、請う、立てて以て燕王と為さん」と。丞相の噲をして兵を將いて代の地を平らげしむ。 

 利幾反し、上自ら擊ちて之を破る。利幾は、項羽の將なり。羽敗るるや、利幾陳令たり、降りて、上之を潁川に侯たらしむ。上雒陽に至り、通侯の籍を舉げて之を召すも、而れども利幾恐れ、反す。 

 後九月、諸侯の子を關中に徙す。長樂宮を治む。

 

【訳文】

 五年冬十月、漢王は項羽を追って陽夏の南まで来て軍を止め、齊王の韓信および魏の相國の彭越と時間を決めて会う約束をし、それで楚を擊とうとして固陵まで来たが、韓信と彭越は合流しなかった。楚軍は漢軍を攻撃し、大いに破った。漢王はさらに砦に入り、ほりを深くして守りの態勢に入った。漢王は張良に言った。「諸侯が従わないのをどうしようか」と。張良は答えて言った。「楚兵はいまにも敗れようとしているのに、まだ韓信と彭越には封地がなく、彼らが来ないのは当然のことでございましょう。君王(漢王)が彼らとともに天下の地をともに分かちあうことができれば、立ちどころに彼らを招くことができるでしょう。齊王の韓信が立ったのは、(韓信が自ら求めたのであり)君王の考えから行ったものではなく、韓信もまた自らを安心させることができてはいません。彭越はもともと梁の地を定めましたが、はじめ君王は魏豹が魏王となっていたので彭越を相国に拝しました。今や魏豹も死に、彭越も王となることを望んでいますが、君王は早急に彭越を王とはしませんでした。今、君王はわずかに睢陽以北の穀城に至るまでをすべての地を彭越に与えて王として封じ、陳以東の海に至るまでを齊王の韓信に与えることができます。信の家は楚にあり、韓信の考えとしては、さらに故郷の土地を手に入れたいと求めています。この地を提供して二人に与えることを許し、それぞれ自分のために戦わせることができれば、楚を破ることが容易になるのです」と。この時になって漢王は使者を韓信・彭越に派遣して事を伝えさせた。すると韓信・彭越はは二人とも兵を率いてやってきた。 

 十一月、劉賈は楚の地に入り、壽春を包囲した。(劉賈が固陵に帰還すると、劉賈の指示で)漢軍もまた人を派遣して楚の大司馬の周殷を寝返るよう誘わせた。周殷は楚に叛き、舒の兵で六を攻め取り、九江の兵をまとめて黥布を迎え入れ、一緒に行軍して城父を攻め取り、劉賈にしたがって皆な合流した。 

 十二月、項羽を垓下で包囲した。項羽は夜に漢軍が四面ことごとく楚の歌を歌っているのを聞いて、漢がすでに楚の地すべてを手中に収めたのだと分かり、数百騎とともに逃げ、そのために楚軍は大敗した。灌嬰は項羽を追撃して東城で斬った。楚の地はことごとく平定されたが、魯国のみ降伏しなかった。漢王は天下の兵を率いて魯を攻め取ろうとしたが、魯が節操を守り禮義を重んずる国であると考え、そこで項羽の首を持って魯の父老たちに示したところ、魯はようやく降伏した。かつて懷王は項羽を魯公に封じ、項羽が死んでも、魯の人々はさらに項羽のためにその地を堅く守ったため、項羽を魯公として穀城で葬を行った。漢王は項羽のために葬を行うことを発表し、哭臨を行って去った。項伯ら四人を列侯に封じ、劉姓を賜わった。もろもろの民で楚に在る者はほとんど皆漢に帰順した。漢王は定陶に帰り、齊王の韓信の軍営に馳せ入って、その軍を奪った。かつて項羽が立てた臨江王の共敖はすでに死んでいて、子の共尉が後を嗣いで王となっていたが、共尉は漢に降伏しなかった。漢王は盧綰と劉賈を派遣して共尉を攻撃し、捕虜とした。 

 春正月、兄の劉伯を追尊して武哀侯の号を贈った。漢王は令を下して言った。「楚地はもう定まり、義帝が亡くなってからというもの、(私は)楚の人々をいたわり救い、その主を定めようと思っていた。齊王の韓信は楚の風俗になじみがあるので、改めて楚王となし、淮北の地域を治めさせ、下邳を都とすることにする。また、魏の相国の建城侯の彭越は魏民をいたわり、士卒にへりくだって接し、常に少ない兵で大軍と戦い、何度も楚軍を破ったので、魏の故地を与えその地の王となし、梁王として、定陶を都とすることにする」と。さらに言った。「兵は八年の間ずっと休みがなく、万民が苦しむこと甚しい。今や天下統一の事業は終わり、天下の死罪の明らかな者以外に大赦を下そう」と。 

 この時にあたり諸侯たちは上疏して言った「楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・故衡山王吳芮・趙王張敖・燕王臧荼らが無知でありながら死罪を顧みず再拝して大王陛下に申し上げます、先に秦が失政をした際に、天下がこれを滅ぼしました。大王はまず秦王を捕らえ、関中を平定し、天下において功績は最も多大でありました。亡びるものを存続させ危ういものをおさめ、敗れるものを救い断絶した宗祀を後代に継ぎ、天下万民を安寧にして、功績は盛んで徳は厚い状態でございます。また諸侯への待遇をよくし功績がある者を王とし、社稷を立てることができるようにさせてくださいました。地位は定まりましたが、(大王との)爵位名号は差が無く、(これが)上下の区分を無くしてしまっており、大王の功徳が顕著であったことが、後世に広く明らかになりません。無知でありながら死罪を顧みず再拝して皇帝の尊号をたてまつろうと存じます。」と。漢王は言った「私は、帝号は賢者にあるものであると聞いている。虚言で実を伴わない名称は、受けるところではない。今諸侯王たちは皆すすめて私を高く思ってくれている、(しかし)何を根拠に今まさに皇帝の位に居ろうとするのだろうか。」と。諸侯王は皆言った「大王は卑しい身分より(身を)起こし、亂秦を滅ぼし、天下に衝撃を与えました。また田舎の地でもって、漢中より威德広めて(人々を)従わせ、不義なる者を誅滅し、功ある者をとり立て、天下を平定し、功臣は皆 封地を受けそこで生活をし、(大王はこれらを)私有しませんでした。大王の徳は天下に広まり、諸侯王がこれを言うまでもなく、(大王が)帝位にあることは至極当然のことであります、願わくば大王がこれらの理由でもって(帝位につき)天下にめぐみをもたらさんことを。」と。漢王は言った「もし諸侯王が幸いにして(私が帝位につくことが)天下の民のために都合がよいと思うのであれば、それもよいだろう。」この時にあたり諸侯王及び太尉長安侯の臣綰等の三百人、そして博士稷嗣君叔孫通が慎重に、良日を選んで二月甲午に、尊號をたてまつった。漢王は氾水の北で皇帝に即位した。王后を尊び皇后といい、太子は皇太子といい、(漢王の)亡き母を追尊し昭靈夫人といった。 

 高祖は詔を下して言った。「もとの衡山王の呉芮は息子二人と兄の子一人とともに、(閩越王の無諸や越東海王の搖たち)百越の兵をの兵を従えてそれによって諸侯を補佐して暴虐なる秦を誅滅し、大きな功績があったので、諸侯は呉芮を立てて王とした。項羽は呉芮の土地を奪い、呉芮を番君と呼んだ。さて、長沙・象郡・桂林・南海郡の地を番君の呉芮に与えて長沙王とする」と。また言った。「もとの越王の亡諸は、代々越の祀を奉ってきたが、秦はその土地を奪い、社稷で血食をさせなかった(先祖代々を祀る儀をさせなかった)。諸侯が秦を討伐するにあたり、亡諸はみずから閩中の兵を率いて秦を滅ぼすのを助けたのに、項羽は王に立てなかった。今、亡諸を閩粤王とし、閩中の地の王とし、務めを失わせることのないようにせよ」と。 

 高祖はそうして西のかた洛陽を都とした。夏五月、軍隊は解散して兵士は家に帰った。高祖は詔を下して言った。「諸侯の国人で関中にいる者は、賦役を十二年分免除し、すでに国に帰った者は六年分免除する。民はかつて或いは集まって山澤で身の安全を図り、戸籍に記されなかったが、今、天下はもう平定されたので、それぞれ自分の県に帰らせ、もとの爵位と田宅を返し、吏は法によって指導・布告を行い、笞うって辱めることのないようにせよ。民の中で飢餓を理由に身を売って人の奴婢となった者は、皆な解放して庶人とする。軍の吏卒で、大赦にあずかった者、もともと罪はないけど爵の無い者、および爵位はあるけど大夫に満たない者は、みな爵を賜い、大夫とする。もともと大夫以上である者は一級上の爵位を賜い、七大夫以上の者は、みな食邑を与え、七大夫より下の爵位の者は、みなその人自身および家族の賦役を免除し、ひどく使役することのないようにせよ」と。また言った。「七大夫・公乗以上はみな高爵である。諸侯の国人の従軍して帰る者は高爵の者が非常に多く、私はしばしば吏に詔を下してまず田宅を与え、自らの土地に帰って、吏に対して田宅を求めてしかるべき者がいれば、すみやかにその田宅を与えよと命じた。高爵はまた(食邑のある以上は)人君であり、天子も尊ぶ存在であるというのに、長い時間役人の前に立って求訟・陳情しても、(役人が田宅を与えるという)決断を為さないのは、(太守・都尉・県令・県令などの高官による)教訓がなされていないということである。昔、秦の民爵の公大夫以上は、令・丞ともに対等であった。今私は爵位について軽視することはないが、官吏だけはどうして軽んじるのだろうか。その上、法は功労がある者に田宅を与えるものだが、下っ端役人にある者は従軍経験のない(功労のない)人物が多く満ちており、反対に功労のある者は(田宅を)得ておらず、公に背き私腹を肥やしている状態で、(これは)郡守・郡尉・縣の令長の教訓がとてもよくないからである。その役人達に高爵の者の待遇をよくして、私の意にかなう様にさせよ。その上で実際に調査を行い、私の詔に従わない者があれば、重罪の前提でもってその者の処遇について議論せよ。」と。 

 皇帝は酒宴を洛陽の南宮にて催した。皇帝は言った「通侯・諸將は決して私に隠し事をしないように、皆その実情を言うように。私が天下に君臨する理由は何か。項羽が天下を失った理由は何か。」と。高起と王陵が答えて言った「陛下は驕り高ぶって人を侮り、項羽は仁にして人を敬います。しかし陛下は人に城を攻めて領地を奪取させ、降伏した所は攻略した人に与え、天下を(人と)共有して利益を同じにします。項羽は賢者を妬み能力ある者を嫉み、功績ある者は邪険に扱い、賢者には疑いをかけ、戦に勝っても人に功を与えず、土地を得ても人に利益を与えず、これが項羽が天下を失う所以であります。」と。皇帝は言った「あなた達はその一を知っているが、その二を知らない、ということだ。そもそも帷幄の中で策略をめぐらせ、千里の外に勝利を決することについては、私は子房(張良)に及ばない。國を安定させ百姓を慰撫し、軍糧を供給し補給路を絶やさないようにすることについては、私は蕭何に及ばない。百万の軍を統率して、戦えば必ず勝利をおさめ(城を)攻めれば必ず取るということにおいては、私は韓信に及ばない。三人は皆人傑であり、私は三人を用いることができた、これが私が天下をとる所以のものである。項羽は(その点)一人范増がいたが、用いることができなかった、これが私によって虜にされた所以のものである。」と。群臣はよろこんで服従した。 

 当初、田横は彭越に帰順していたが、項羽はすでに滅び、田横は誅殺されることを恐れて賓客たちと逃げて海に出(て、海上の島にたてこもっ)た。高祖は、田横がこれから長く乱を起こし続けるのを恐れ、使者を遣わして田横を赦させて言った。「田横が降って来るならば、上なる者(たる田横)は王、下なる者は諸侯に封じよう。もし来ないのならば、今にも兵を発して誅を行おう」と。田横は恐れ、乗傳に乗って雒陽に向かい、あと三十里のところで自殺した。高祖は、その節操を立派だと感じ、田横のために涙を流し、兵卒に千人を派遣して王の礼で田横の葬を行った。 

 辺境の(隴西の)地の兵士であった婁敬は、(同じ斉人である虞将軍を通じて)高祖に見えることを求め、そして見えて高祖に申し上げた。「陛下が天下を取った状況は周とは異なりますが、それなのに(周と同じく)雒陽を都とするのは都合がよろしくありません。関に入って、秦の地の要害を頼るのに及ぶことはありません」と。高祖は(群臣に諮ったが決めかねて)それで張良に問うたところ、張良は高祖に(長安を都とするよう)勧めた。即日、高祖は西のかた長安に都を遷した。婁敬を奉春君となし、劉の国姓を授けた。六月壬辰、大赦を行った。 

 秋七月、燕王の臧荼が反乱を起こし(さらに代の地を平定し)、高祖は自ら兵を率いて征伐した。九月、臧荼を捕虜にした。諸侯王に詔を下し、功有る者を示させ、その人物を燕王に立てようとした。荊王(楚王)の韓信ら十人はみな言った。「太尉の長安侯の盧綰は功が最も多く、どうか盧綰を燕王に立ててください」と。丞相の樊噲に兵を率いて(臧荼が支配下に置いた)代の地を平定させた。 

 利幾が反乱を起こし、高祖は自ら出撃して利幾を破った。利幾は項羽の将である。項羽が敗れたとき、利幾は陳令であったが、漢に降ったので高祖は利幾を潁川侯とした。高祖は雒陽に至ると、徹侯の位の者をみな召し(て、その中に利幾も含まれてい)たが、利幾は恐れて反乱を起こした。 

 後九月、諸侯の子を關中に徙した。また、長楽宮を修復した。

 

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◇◆レジュメ(バックナンバー)◆◇

※このページの翻訳は下記発表者のレジュメによってなされたものです。

2017,5,14(発表者 董卓(護倭中郎将)) 

2017,6,11(発表者 すぐろ) 

2017,6,18(発表者 董卓(護倭中郎将))

2017,6,25(発表者 すぐろ) 

2017,7,2(発表者 董卓(護倭中郎将))